泉秀樹の歴史を歩く

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小田原北条氏と秀吉 【2018年4月】

青空にそびえ立つ小田原城天守閣

青空にそびえ立つ小田原城天守閣

 作家・泉秀樹が向かったのは、平成の大改修で美しく生まれ変わった小田原城だ。
現在の姿は、宝永3年(1706)、江戸時代に造られた天守をモデルに1960年に再建されたものである。
 しかし戦国時代、小田原・北条氏が支配していた頃の小田原城は、現在のお城とはまったく異なっていた。城下を囲む総構(そうがまえ)が築かれ、その規模は日本最大の中世城郭だったのだ。
 戦国時代においておよそ100年間、五代続いた小田原北条氏は、なぜ秀吉によって滅ぼされることになったのだろうか?
 作家・泉秀樹が歴史の現場を探訪取材し、遠い昔と今をつなぐ独自の視線で人と事件をプロファイルして真実を深堀する!

登場人物

第1章 小田原攻めの発端・秀吉はなぜ?

戦争の原因となった名胡桃城

戦争の原因となった名胡桃城

 なぜ北条氏は秀吉と戦うことになったのだろうか。それは秀吉が「惣無事令(そうぶじれい)」を発布したことに関係がある。「惣無事令」とは、大名たちが領土争奪の私闘を行ってはいけないということだ。領土確定の問題は、秀吉自身が裁定する。そして大名たちは上洛して秀吉に服従を誓わなくてはならない。これは天皇の委嘱を受けてこの国を治めるということを意味している。秀吉が最強最大の日本の頂点に立つものであるという法令だ。北条氏政・氏直父子は、この「惣無事令」に違反したのだ。
 その発端は、天正17年(1589)7月。秀吉は北条氏が服属の前提条件にしていた沼田領割譲に関する裁定を下したことに端を発する。沼田領の3分の2が北条氏。沼田領の3分の1が真田氏と決められた。しかし、その4か月後の11月、北条に属する沼田城の城主・猪俣邦憲(いのまた くにのり)が、名胡桃城(なぐるみ)を攻撃してこれを奪取するという事件が起った。
 名胡桃城は、真田一族の墓所があるため秀吉は特別に真田領として認めていた。それを氏政が奪ったため秀吉を怒らせたのだった。

第2章 小田原城は天下の名城・防衛体制は?

桜と小田原城天守閣

桜と小田原城天守閣

 ここで秀吉による小田原攻めが行われる前の小田原城の戦いの記録を見てみよう。

○謙信の小田原攻め
 小田原は永禄4年(1591)には上杉謙信に攻められている。謙信の最盛期で96,000余の軍勢が、40日間あらゆる手をつくして攻めたが、北条氏康が守る小田原城は落ちなかった。
 周辺に放火して撤退するしかなかった。そのあと氏康、氏直、氏政と拡張整備工事をつづけ、防衛機能が高められていた。

○信玄の小田原攻め
 永禄12年(1569)には武田信玄が25,000の軍勢で攻めた。が、これも難なく撃退し、小田原城は天下の名城だといわれた。
 名城であった小田原城に立てこもる氏政・氏直に、秀吉が宣戦布告したのは天正17年(1589)11月24日である。対する北条氏は、その2年前の天正15年(1587)初めからすでに小田原城の改修大普請を開始していた。その日の来ることを予想して、すでに臨戦体勢に入っていたのだ。

第3章 小田原の城下町の繁栄・掘切りとは?

秀吉が築いた石垣山一夜城

秀吉が築いた石垣山一夜城

北条氏が築いた総構(そうがまえ)

北条氏が築いた総構(そうがまえ)

 氏政のころの北条氏の領土は、伊豆、相模、武蔵、上野(こうずけ)の大部分、下野(しもつけ)半分、下総(しもうさ)半分、上総(かずさ)半分、常陸(ひたち)の南部であり、安房(あわ)、上総の半分を持つ里見義康(さとみよしやす)との同盟関係を含めれば、東国最大の、関東の北条帝国であった。初代・早雲、二代・氏綱、三代・氏康が築き上げた領土を逐次拡大し、北条家の勢力を最大に育て上げている。
 天正18年(1590)秀吉を迎え撃つ準備が整えられたその頃の小田原城は、大坂城に次ぐ規模の城郭であり、巨大な城塞都市である。決して破ることができない壁のような、深い凹みと高い土塁・堀切りを城と城下町の周囲にめぐらせて閉鎖空間をつくりだした。いわゆる「総構(そうがまえ)」を作ったのだ。
 しかし、天正18年(1590)6月26日。北条氏の自信と誇りを打ち砕くような出来事が起きた。日が昇ると、城から西を望んだ箱根の山脈の手前にある笠懸山の上に白亜の城塞が出現していたからだ。秀吉は、それまで密かに作っていたお城を、朝突然まわりの木を全て切らせてぱっと城を出現させたのだ。それが「石垣山一夜城」である。

第4章 小田原合戦の最終章・歴史はどう動いたか?

北条氏政・氏照の墓所

北条氏政・氏照の墓所

 天正18年(1590)6月26日。この日から小田原合戦の最終章がはじまった。
 まず、日が昇ると、小田原城内に衝撃が走った。城から西を望んだ箱根の山脈の手前にある笠懸山(かさがけやま)の上に白亜の城塞が出現していたからである。それまで密かに作っていたお城を、朝全部突然まわりの木を切ってぱっと出現させた。そのとき白い壁は壁の代わりに紙が貼り付けてあったそうだ。
 さしもの名城・小田原城もなす術なく孤立し、北条氏はもはやなす術がない、という状態に陥った。そこで、頃合いを見計らって人誑しの名人である秀吉は黒田官兵衛と羽柴勝雅(滝川雄利・滝川一益の娘婿・養子)を起用した。もしここで降伏すれば武蔵と相模は安堵しましょうといった。氏政は関東全域を今まで持っていた人間です。そういうものがたった2国に閉じ込められるなら城を枕に討ち死にしたほうが良いといった。
 黒田官兵衛は酒や魚を送った。そうすると氏政はさらに鉛と火薬を逆に送り返してこれでわが城を攻めてくれといった。そのあと官兵衛は肩衣(かたぎぬ)袴(はかま)で刀も持たずに一人で城内へ入り、北条氏政・氏直父子と対面して懇切に説得した。
 その結果、7月1日に五代・氏直は官兵衛の説得に応じ、家康を訪ねて降参の意思を伝えた。しかし、四代・氏政はすぐには降参しなかった。水尾口に新たに築いた城に籠もって動こうとしなかったのだ。だが、10日になってようやく諦めをつけ、新城をあとにした。
 翌11日、氏政と氏照は医師・田村栖庵宅で切腹した。こうして、北条帝国は五代で幕を閉じた。

地図

  • 関東の勢力分布図関東の勢力分布図(クリックすると拡大)
  • 豊臣方の布陣図2(クリックすると拡大)豊臣方の布陣図2(クリックすると拡大)
  • 関東の勢力分布図関東の勢力分布図
  • 豊臣方の布陣図2豊臣方の布陣図2

登場人物プロフィール

北条氏政

北条氏政
後北条氏の第四代当主。父は北条氏康、母は今川氏親の娘・瑞渓院。

小田原・北条氏は早雲、氏綱、氏康と三代をかけて関東の雄に成長した。
関八州を制した四代目・氏政は、どのような男だったのか。
飯に汁をかけて食べるとき、その量を計りかねてもう一杯を所望して父・氏綱にこれで北条は終わりだと感じさせた氏政は、無能な男だったのか。それとも、時代の波に乗れなかった武将だったのか。一体なぜ氏政は積極的に攻めて出なかったのか。戦国を生き抜く力があったのか。さまざまな疑問を追求してゆく。

北条氏直

北条氏直
後北条氏の第五代当主。父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院。

小田原・北条氏五代の御曹子。氏直はみずからの生き方をどう考えていたのだろう。滅びてゆく北条家最後の当主として父の影にかくれた存在であった氏直は、自分の命と引きかえに将兵の命を助けようと申し出て秀吉を感服させて生きのびた。その純粋さは、しかし、戦国乱世を生き延びる男としては線が細すぎた。あまりにも未熟だった五代当主の悲劇は何に起因していたのか。そこから現代人は学びとるなにかがあるはずだろう。

豊臣秀吉

豊臣秀吉
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名、天下人。

天正10年(1582)6月2日。本能寺の変が勃発すると、秀吉は明智光秀を討ち、柴田勝家を倒し、徳川家康と戦って天下取りに王手をかけた。そして、最後に「関東の王」小田原・北条氏を倒せば天下統一ができる。
戦国時代を終わらせようとした秀吉は、巨城・小田原城を21万の軍団で包囲して北条氏政・氏直父子を降ろそうとする。その攻と守はどのような展開を見せるのか。秀吉の戦略と北条の戦略の激突を描き出す。

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