泉秀樹の歴史を歩く

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【年末年始スペシャル】光秀はなぜ? 信長暗殺の謎

光秀シルエット

戦国乱世のあらゆる人々を戦慄させた「本能寺の変」
この事件の原因はなにか
光秀はなにを考え なぜ、暁の暗殺を決行したのか?
作家・泉秀樹が隠された真実に迫ります。

J:テレ
2019年12月29日(日)20:00~20:45【前編】
2019年12月30日(月)20:00~20:45【後編】
2020年1月1日(水)19:30~21:00【前後編】

第1章 光秀の生い立ち

明智光秀

明智光秀

明智光秀は享禄元年(1528)3月10日に現在の岐阜県可児市明智に生まれた。天文9年(1540)に生まれたという説もあるがはっきりしない。光秀の父は明智光綱で、その姉・小見の方は美濃の戦国大名・斎藤道三の正室であった。そのため、弘治2年(1556)に勃発した「長良川の合戦」で道三が息子の義龍に敗けて殺されると、明智城は義龍に攻め落とされることになった。このとき光秀の父・光綱はすでに亡く、光綱の弟・光安が明智家を継いでいたが、明智城は義龍軍に攻めおとされた。辛くもこの難を逃れた光秀は、牢人として諸国を放浪したといわれる。やがて越前の朝倉義景に召し抱えらた。鉄砲の技術を身につけていたことが認められたのである。5百貫文を給され、百人の鉄砲寄子を預かることになった。永禄6年(1563)のことだ。

第2章  光秀の躍進と信長の思惑

織田信長

織田信長

永禄12年(1569)。信長は光秀を京都奉行のひとりに取り立てた。これで光秀は、室町幕府15代将軍・足利義昭の奉公衆のひとりであるとともに信長の奉行のひとりでもあることになった。そして、織田家の奉行として洛中洛外の政務に精を出し一歩々々努力を重ねた光秀は、信長の信頼を得ていった。次の年の永禄13年(1570)1月23日に信長は義昭に「殿中御掟五ヶ条」を発してこれを承認させた。これで室町将軍は傀儡政権で、権力はすべて信長にあることが明白になり、これ以降光秀は義昭から離れて信長傘下に入ることを決めた。世話になった義昭を裏切って捨てた光秀のバンドワゴン、いわゆる勝ち馬に乗ることは乱世の常で、責めることはできない。そして、信長の真意を思い知らされた義昭は、以後、陰に陽に、信長と闘うことになる。

第3章  信長暗殺計画

篠八幡宮(京都府亀岡市)

篠八幡宮(京都府亀岡市)

光秀は信長の命で天正3年(1575)から丹波攻略にとりかかりこれを成し遂げ、信長はそのまま光秀に丹波をあたえた。このとき光秀の所領は計34万石になったとも60万石になったともいわれる。ところが、そこまで自分を高く評価している信長を、光秀は殺そうと考えるようになった。天正10年(1582)5月17日、備中高松城(岡山県)を水攻めにしている羽柴秀吉を後援せよと命令された光秀は、このとき、信長に一瞬の隙ができたと判断した。亀岡城にいた光秀が物頭を集合させて出発を命令したのは、6月1日申の刻(午後4時)である。信長が陣立の様子を見たいといっているから出動すると触れさせ、1刻(2時間)後には亀岡の東に兵1万3千を集結し、3隊に編成した。そのあと光秀は、篠八幡宮(亀岡市篠町)で、5人の宿老に信長暗殺を告げた。 

第4章   信長暗殺

本能寺跡(京都市中京区)

本能寺跡(京都市中京区)

誰かが先駆けして密告する可能性があると考えた光秀は、それを防ぐため、今すぐこの場からただちに京都へ進発せよと命じた。光秀軍が亀岡を発ったのは、6月1日亥の刻(夜10時)である。この日の信長は、博多の豪商・島井宗室や神屋宗湛らと書院で茶会を開く予定であったがなぜか中止され、かわりに近衛前久、勧修寺晴豊をはじめとする公家、門跡たちを四十人ほど招いた。彼らが辞去して酉の刻(午後6時)ごろになると、妙覚寺にいた長男・信忠が京都所司代・村井貞勝とともに来訪し、近習たちも加わって、酒宴になった。そして、信忠が宿陣の妙覚寺へ帰り、信長は寝所に入った。光秀がかねてから狙っていたのは、この完全に油断した時の間隙であった。信長が、時の間隙を狙わなければ到底倒せる敵ではないことを、光秀は誰よりもよく心得ていた。

第5章 光秀の最期 山崎の合戦

勝竜寺城(京都府長岡京市)

勝竜寺城(京都府長岡京市)

光秀は信長を殺すことに成功した。ところが、そのあと、京都の町人から粽を献上されたとき、光秀は笹の葉を剥き取らないでそのまま口に入れた。信長を討ち果たしたまではよかったが、そのことに対する怯えと先行きに対する不安で動揺してなかば茫然上の空になっていたのである。予想もできない速さで秀吉軍が岡山から駆けもどった。光秀は敵の毛利や上杉に信長の死を報せる手紙を送ったが、その一通が誤って秀吉に入手されてしまったのである。光秀は単独で勝竜寺城を本陣とし、山崎で秀吉軍を迎え討つことになった。6月13日、午後4時ごろ合戦がはじまり、光秀軍は総崩れし、坂本城を目ざし敗走した。小栗栖(京都市伏見区)まで逃げのび、 ここで落ち武者狩りの土民が竹藪から突き出した槍に脇を刺された。14日、真夜中のことである。

第6章 信長暗殺の真実

信長暗殺の謎には諸説ある。黒幕がいた。それは、徳川家康だった。木下藤吉郎だった。イエズス会、毛利家の政僧・安国寺恵瓊、本願寺、天王の側近の近衛前久・勧修寺晴豊だ。あるいは、光秀が丹波攻めで波多野兄弟と戦ったとき母親を人質に出して外交交渉しようとしたのに、信長は波多野兄弟を殺し、その報復で光秀の母親が殺されてしまった。その復讐のために光秀は信長を殺した。個人的な怨恨からだ、ともいう。どちらにしても、信長は光秀と義昭という人物が体現していた室町幕府という中世の残骸に殺害された、ということである。信長が近世へ導こうとした、人間の社会が進歩していくはずの歴史は不条理によって破壊されたのだといえばそれまでだが、それでも尚なぜだろう?光秀はなぜ、信長を殺したのかと、何度でも問いかけたくなる。

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