泉秀樹の歴史を歩く

泉秀樹の歴史を歩く

石田三成と忍城【2019年2月】

石田三成が陣を構えた丸墓山古墳(埼玉県行田市)

石田三成が陣を構えた丸墓山古墳(埼玉県行田市)

石田三成は攻めるに難しい忍城を23,000の将兵とともに水攻めにした。約3,700の名もない人々はこの城をどう守ったのか?どちらが勝利しどちらが敗北したのか?勝敗を決したのは何だったのか?
遠い昔と今を結ぶ線を辿る。作家・泉秀樹が歴史の現場を取材し独自の視線で人と事件をプロファイルする!

登場人物プロフィール

石田三成

石田三成
1560~1600(永禄31年~慶長5年)

■初名・三也、通称・佐吉
■近江の人、父は正継(まさつぐ)
■豊臣氏五奉行の一人
■太閤検地を推進
秀吉が長浜城主であった天正2年(1574)のある日、秀吉は放鷹に出た帰りに三成と出会った。休息のため立ち寄った観音寺(滋賀県栗太郡常盤)で茶を所望したところ、1人の少年が大きな茶椀にぬるく点てた茶を運んできた。ごくごくとおいしそう飲み干した秀吉が「もう一杯」というと、その少年は前より少し熱くした茶を茶椀に半分ほど点てて差し出した。これも飲み干した秀吉が3杯目を少年に望むと、こんどは小さな茶碗に熱く点てた茶を運んできた。この佐吉という少年の才智、機転のよさに感心した秀吉は住職にかけあって小姓に取り立てたという。観音寺で修行をしていた石田三成、15歳の時であった。以来、有能な人材として三成を高く評価してくれた秀吉に対し、三成もこの期待に大いに応え、深い信頼関係を築いていった。

第1章 忍城への進撃開始

北条氏の支城・八王子城

北条氏の支城・八王子城

小田原・北条氏を征圧するため、豊臣秀吉は天正18年(1590)3月1日、35,000の軍団をひきいて京都を出発した。秀吉は、3月27日、諸将の集合場所である沼津に到着し、29日には進撃を開始した。関東最大の勢力を誇る北条氏の支城は、主なものでも北条氏照の八王子城、北条氏房の岩槻城、北条氏邦の鉢形城をはじめ松山城、川越城、江戸城、津久井城、玉縄城などがあった。こうした関東に散在する北条側の支城を、秀吉は余裕をもって諸将に命じて、すでに調略したり、攻撃したり、攻略していた。石田三成以下、長束正家、大谷吉継は館林城を落とし、6月4日には館林を発って、次の標的である忍城に向かった。武蔵国は平原、広野にして山を見ず。朝日、夕日ともに草の際に出没し、処々に沼あり、という・・。

第2章 泥沼との戦い

忍城(埼玉県行田市)

忍城(埼玉県行田市)

石田三成が忍城の大宮口に布陣したとき、忍城内には、男女あわせて約3,740人が立てこもっていた。『忍城戦記』には「侍69人、足軽420人、百姓、町人、寺法師雑兵(中略)都合2,640人也。15歳以下の童部ら、1,013人」とある。また「総て地下農民、商人、社家、山伏、或は15歳以上の小冠者たち」が籠城したという記録もある。これに対する三成たちの、逃げ場をひらいたC字型の包囲の布陣は完璧でした。士気も旺盛だった。翌6月5日(新暦7月6日)朝、攻撃が開始された。いっせいに鬨の声をあげて、矢・鉄砲を撃ち込んだ。しかし戦場は、足場のわるい沼地で上方勢は城内からの反撃で、手負いのものや戦死者が続出した。城をとり囲む沼に行く手を阻まれて、遠巻きにしているよりなかったのである。

第3章 水攻め

今も残る忍城水攻めの際につくられた石田堤(埼玉県行田市)

今も残る忍城水攻めの際につくられた石田堤(埼玉県行田市)

三成はいった。「堤を築き、利根川・荒川を切懸けて浸責にすべし」消極的攻撃ではあるが、それ以外に、つまり、敵である泥沼を味方につける以外、率いる兵の損耗を避け、同時に籠城軍をしめあげてゆく方策はありえなかった。6月9日から築堤工事がはじまった。三成は、忍城周辺の25の郷村から人手を狩り集め、賃金として、昼間は米1升と永楽銭で60文、夜間は米1升と100文を支払った。当時の相場の約2倍の労賃である。農繁期を考えた2倍の労賃で、数10万人の人足が集まった。彼らは昼夜を問わず、築堤工事に励んだのである。ところが、この工事には、大胆にも忍城内の農夫や商人が加わっていた。このことを察知した攻撃軍の奉行たちは、三成に向かって、城内から出てくる人夫は捕えて首を斬り、さらしものにすべきだと進言しました。しかし三成は頭を横に振った。

第4章 勝者は誰か?

堀切橋(石田堤が決壊した現場)

堀切橋(石田堤が決壊した現場)

6月24日。秀吉は、岩槻城を落とした浅野長政、真田昌幸・信繁(幸村)父子らの率いる6,000の援軍を忍城にさし向けた。そして、即刻総攻撃が泥沼のなかで敢行された。三成は下忍口を急襲した。飛来する弾丸にも錣(しころ)を伏せて進撃し、塀にとりついて、城内まで攻め入った。各隊もそれぞれ押し寄せた。が、城兵は善戦し、寄せ手は夕方6時ごろには押し返されて、帰陣する為体だった。三成は兵300を失い、手負いは500に及んだ。三成はまたしても、泥沼に敗北しなければならなかった。7月5日、小田原城が降伏した。それでもなお、忍城は降伏しなかった。11日にいたって、はじめて開城した。『忍城戦記』には、そのときのことがこう記されている。「城中男女出籠如鳥悦(じょうちゅうのだんじょかごをいでしとりのごとくよろこぶ)」みんな籠から放たれた鳥のように喜んだという。彼らこそ、勝利者だったのである。

地図

  • 忍城水攻め地図忍城水攻め地図(クリックすると拡大)
  • 忍城水攻め地図忍城水攻め地図

過去の放送はこちら

J:COMへのお申し込み

Copyright (c) JCOM Co., Ltd. All Rights Reserved.

J:COM

Copyright (c) JCOM Co., Ltd. All Rights Reserved.
ケーブルインターネットZAQのキャラクター「ざっくぅ」