泉秀樹の歴史を歩く

泉秀樹の歴史を歩く

加藤清正と熊本城【2019年3月】

震災前の熊本城 撮影:泉秀樹

震災前の熊本城 撮影:泉秀樹

虎退治の加藤清正。武闘派・豪傑伝説ばかりが伝わっているが、ほんとうは心やさしい水の脅威と戦った土木の天才インフラ整備の名人のスケールの大きい業績を見に行く。
遠い昔と今を結ぶ線を辿る。作家・泉秀樹が歴史の現場を取材し独自の視線で人と事件をプロファイルする!

登場人物プロフィール

加藤清正像 撮影:泉秀樹

加藤清正像 撮影:泉秀樹

加藤清正

加藤清正は尾張国愛智郡中村、現在の愛知県名古屋市に生まれた。
生家はこのころ秀吉の生家の隣りにあった。清正の祖父・清信は、美濃の斎藤道三に仕えて犬山城(愛知県犬山市)城代となっていた。 また父・清忠も道三に仕え、今須城(岐阜県不破郡関ヶ原町)の城代に任じられていた。
弘治2年(1556)4月20日、道三が長子の義龍と戦って敗死したため、清忠は城を捨てて中村で鍛冶屋を営む知人を頼って移り住んだ。そして、みずからも刀鍛冶として働いたといわれておりこのころ清正が生まれた。
ところが、清正が3歳のとき、父・清忠が病死してしまった。そこで清正の母・伊都は刀鍛冶をしていた義弟を頼って津島(愛知県津島市)へ移った。尾張有数の富裕な港町で清正は少年時代を過した。清正の母・伊都は秀吉の母・なか(大政所)と従姉妹同士であったといわれ、清正は秀吉の小姓になった。以後清正は、文字通り秀吉子飼いの武将として育てられたのである。

第1章  清正の豪傑伝説

博多祇園山笠「清正公武勲」中村信喬作

博多祇園山笠「清正公武勲」中村信喬作

天正10年(1582)信長の命令による秀吉の中国攻略作戦のとき備中・冠山城攻め(岡山県岡山市下足守)に一番乗りし、竹井将監(たけいしょうげん)を討ち取った。さらに、山崎の合戦、滝川一益(たきがわかずます)との戦いなどで次々と功名を挙げた。天正16年(1588)、「火の国」と呼ばれる肥後の北半国、25万石の領主となった。
文禄5年(1596)年7月13日、子の刻、大地震が山城・伏見(京都市伏見区)を襲った。「慶長伏見地震」である。その時、秀吉の命で謹慎していた清正は足軽200人に梃子にできる木材を持たせて伏見城に駆けつけた。これで秀吉の勘気が解けた、といわれている。この話は、明治2年(1869)河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)が『増補桃山譚』(ももやまものがたり)というタイトルで歌舞伎化し、以後清正が秀吉に忠誠をあらわす『地震加藤』の通称で広く知られるようになった。

第2章  治水事業とインフラ整備

馬場楠井出の鼻ぐり 撮影:泉秀樹

馬場楠井出の鼻ぐり 撮影:泉秀樹

清正が入国したころの話だが、肥後には多くの土豪が割拠して混乱状態が続いていた。阿蘇や菊池などの山林は乱伐されたまま、植林が行なわれなかったため、雨が続くと、川は暴れ放題で、すぐに洪水になって田畑は湖のようなありさまで流出家屋も多く、荒れ地が多かった。海岸線も放置されたままで、堤防もなく、満潮になると潮が平野部まで匍いひろがっていた。ごく狭い干潟や沖積地に田畑が散在している状況であったうえ清正領には秀吉の直轄地もあったから、清正自身の歳入は少なくて財政は困窮していた。そのため清正は入国と同時に国内の統治を進める一方で、荒廃した自然の制圧に着手した。それが民政の安定の最重要課題であると考えたからである。肥後国には4大河川が流れている。菊池川、白川、緑川、球磨川である。清正はまず領内統治のための治水事業をはじめとするインフラの整備にとりかかった。

第3章  熊本城の築城

二様の石垣 撮影:泉秀樹

二様の石垣 撮影:泉秀樹

清正は部下に恵まれていた。森本儀太夫、飯田覚兵衛、三宅角左衛門などで、この三人は石垣積みをはじめとする土木工事の先端的な技術を持つ名人たちだった。清正は彼らを大坂、尾張、越後、相模、播磨などへ派遣して築城の様子を調査取材させ、その発想やデータを熊本城築城や城下町整備に反映させた。
雄大な規模の、非の打ち所がないみごとに仕上がった熊本城の、建造に必要な資金は、莫大な額にのぼった。では、その資金を、清正はどこから調達したのか?清正は、海外貿易と端川の銀、そして略奪で城普請の資金を稼ぎだした。
番組内では、これまで「二様の石垣」は清正時代につくられたもの(写真右側)と細川家時代につくられたもの(写真左側)による合作と言われていたが、そうではないという新説などが紹介される。

第4章  清く正しい生き方

横田・加藤神社 撮影:泉秀樹

横田・加藤神社 撮影:泉秀樹

清正は、土木工事に着工する際に、必ず工事の完成と事故の撲滅を祈願してお祭りを行なったとされる。これは工事そのものを神聖化するだけでなく、工事関係者の連帯感を醸成することに役立った。現在、熊本の各地に清正を祀る加藤神社が残されている。およそ戦国期の神社というものは、巨大な権力を誇示するために創建されることが多いが、加藤神社の多くは、清正と縁の深い、とくに各種の土木工事によって多大な利便性を与えられた農民たちが、清正の生きているうちに、あるいは逝去後に、その徳を偲んでささやかに建てたものだ。
慶長8年(1603)徳川家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いて覇権を確立すると、大名たちが大坂城の秀頼のもとに行くことが憚られるようになった。しかし、清正はそれを問題にせず「これは武士としての忠義」と平気で大坂に出向いた。秀吉に対する報恩の気持ちを生涯持ち続けたのだ。

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