泉秀樹の歴史を歩く

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北条早雲への旅【2019年4月】

北条早雲像(小田原駅前)

北条早雲像(小田原駅前)

北条早雲とは何者なのか?伊豆・相模2か国を盗った策謀とは?戦国時代の扉を開いた下剋上伝説を検証し、小田原北条五代100年の繁栄を招いた知略を追う。
遠い昔と今を結ぶ線を辿る。作家・泉秀樹が歴史の現場を取材し独自の視線で人と事件をプロファイルする!

登場人物プロフィール

北条早雲(ほうじょうそううん)

北条早雲(ほうじょうそううん)

北条早雲

北条早雲は「下剋上」の時代の先駆けである。早雲は康正2年(1456)備中・荏原荘(えばらのしょう)(岡山県井原市)、高越山城(たかこしやまじょう)の城主・伊勢盛定と室町幕府の政所執事(まんどころしつじ)伊勢貞国の娘の間に生まれた。高越山城で早雲がどのように育てられたかなど、幼少期のことはわからないが、ものごころ着いてからは法泉寺(ほうせんじ・岡山県井原市西原町)に通い、学問と武芸を学んだと伝えられる。

第1章 北条早雲とは

足利将軍室町第跡(京都)

足利将軍室町第跡(京都)

応仁元年(1467)「応仁の乱」が勃発した。このとき駿河守護(するがしゅご)であった今川義忠は、足利幕府を守るためにただちに1,000の兵をひきいて上洛した。そして、ここで義忠は今川氏の将来にとって重要な女性と縁組することになった。義忠は、伊勢盛定の娘・北川殿と結婚したのだ。北川殿は早雲の姉である。その縁があったところへ望んで行ったかどうかは定かではないが、早雲は駿河へ下ることになった。「北条記」によると、早雲が伊勢から駿河へ向かう時、六人の仲間がいたという。「この7人いかなることありとも不和のことあるべからず。たがいに助けをなして軍功を励まし、高名をきわむべし」と神前で誓ったとされている。文明8年、義忠は遠江を制圧したその帰り道、残党による奇襲を受け戦死した。そのため今川家中は、混乱し、2つに割れることになった。

第2章  東国で生きる決心

今川館があったといわれている駿府城(静岡県)

今川館があったといわれている駿府城(静岡県)

今川義忠の後継者をだれにするか?龍王丸は、義忠と早雲の姉との間に生まれた嫡子であったがわずか6歳だった。そのため義忠のあとは継げないだろうと、今川家の庶流の小鹿範満(おしかのりみつ)を支持する一派と、龍王丸の一派とが対立することになった。そして、この内紛状態は激化していった。この相続問題を解決させたのは早雲だった。今川義忠の正室・北川殿の弟であり、駿河守護の相続者であるべき龍王丸の叔父であったためだ。それに早雲の父親は室町幕府・申次衆だ。幕命を背負って両者の調停に乗り出した。交渉相手は、扇谷上杉家の家宰・太田道灌である。早雲は道灌に妥協案を提示した。龍王丸が15歳になるまでは庶流の小鹿範満が当主の座にあり、そのあと嫡流の龍王丸に当主の座をゆずって隠居する、というものである。いったんはこの案でまとまったものの、この約束は守られることはなかった。

第3章  立ち塞がるライバルを撃破

興国寺城・西櫓台からの眺望

興国寺城・西櫓台からの眺望

長享元年(1487)、早雲は駿河に向かった。姉の北川殿(きたがわどの)の要請があったからである。ひそかに駿河入りした早雲は、石脇城(静岡県焼津市石脇下)に入った。この石脇城に龍王丸を当主の座につけようと考えている今川家の龍王丸派の家臣を集め、小鹿範満を倒し、今川家の家督を奪回するしかない、と決めた。11月9日。早雲は範満を急襲すべく、1200の兵をひいきて阿部川を渡り、一里半(約6キロ)東にある今川館をめざした。その作戦の詳細の史料がないが、のちの早雲の戦い方から小鹿側の意表を突く夜襲であり、奇襲であったと考えられる。早雲が今川館を夜襲して攻め落とし、小鹿範満の首を挙げたことによって、龍王丸は今川家に帰還することができた。早雲には手柄として、愛鷹山山麓の興国寺城(静岡県沼津市根古屋)と、富士郡下方十二郷があたえられた。

第4章  戦国大名の地位を確立

早雲が晩年過ごした韮山城

早雲が晩年過ごした韮山城

その後、立ちはだかる城を次々に攻略していった早雲は伊豆を完全に制圧していない段階で小田原進出を企てた。激しい戦いの後、小田原城城主・大森藤頼は結局、城を捨てて、甥の相模守護代・三浦道寸が守っている岡崎城へ逃走した。早雲は、永正3年(1506)に相模・西郡宮地(神奈川湯河原町宮上・宮下)で検地を行った。これは相模西部は自分のものであるという公的な宣言でもあった。この検地は、武士がおこなった初めてのもので、早雲がそれまでのあらゆる支配者と異なる戦国大名に成長していたこと意味している。早雲は、「伊勢早瑞十七箇条」(いせそうずいじゅしちかじょう)を発令し、領国支配の憲法とした。また、家中の規範・家訓として「早雲寺殿廿一箇条(そううんじどのにじゅういっかじょう)」も定めた。 これらのことは、早雲が室町幕府と今川家の桎梏(シッコク)から脱して戦国大名としての地位を確立したという独立宣言であった。

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