泉秀樹の歴史を歩く

泉秀樹の歴史を歩く

熊本城と西南戦争【2019年7月】

熊本城・天守(震災前) 撮影:泉秀樹

熊本城・天守(震災前)
撮影:泉秀樹

西郷隆盛とともに挙兵した薩摩武士は、明治政府に対する耐えがたい不満と激しい敵意をもって熊本城に肉薄した。その名城をめぐる攻防戦の勝敗は、どこで分かれたのか?
遠い昔と今を結ぶ線を辿る。作家・泉秀樹が歴史の現場を取材し独自の視線で人と事件をプロファイルする!

第1章 薩摩の挙兵

北岡神社・西郷隆盛の本営 撮影:泉秀樹

北岡神社・西郷隆盛の本営 撮影:泉秀樹

徳川幕府を倒した明治新政府による、地租改正、対ロシア・対朝鮮 政策、士族冷遇、政府高官の腐敗などに対する批判や不満を持つ、主に士族による反乱が日本各地で起きていた。明治10年2月5日、西郷は私学校へ行き、彼らと協議した。激昂する彼らは、大久保利通をなじり、政府に真を問おうと叫ぶ。西郷は目を閉じ、じっと彼らの言葉を聞いていた。やがておもむろに顔をあげると「おいどんのからだはさしあげまっしょ」とうなずきながらいった。
2月12日、政府へ尋問の筋あるゆえ上京する旨を記し、陸軍大将・西郷隆盛、陸軍少将・桐野利秋、陸箪少将・篠原国幹の3名連署の届書が、鹿児島県令の大山綱良に提出された。これが、事実上の挙兵であった。

第2章 西南戦争の始まり

熊本城・五層櫓跡(向こうは飯田丸) 撮影:泉秀樹

熊本城・五層櫓跡(向こうは飯田丸) 撮影:泉秀樹

山県有朋は、かなり早い時期から、西郷は反乱に加担するはずだと予測していた。西郷自身にその気持ちがなくても、私学校党の生徒たちが西郷を担ぎ出し、これまでの情誼から、西郷はこれに乗らざるをえないだろうと見ていた。だから、政府軍は、薩摩軍の暴挙発生の報を耳にすると、すぐに、熊本城の鎮台に警戒を強めるように打電した。薩摩軍が進発したことを知った熊本鎮台司令長官・谷干城は、鎮台兵が3,300余で、弱兵であることを考え、籠城と決定した。また、薩摩軍に呼応した熊本士族の挙兵に危機感を抱いていた。谷は堀の橋を落とし、要所要所に堡塁を築き、地雷を埋設した。政府から熊本鎮台に征討令が届いた。これによって鎮台兵は「官軍」で、薩摩軍は「賊軍」になった。しかし薩摩軍は、農民上りの多い熊本鎮台兵を頭からバカにしてかかっていた。鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦い以来、負けを知らない薩摩軍は驕っていたのだ。

第3章  熊本城と薩摩軍

熊本城炎上

熊本城炎上

政府軍は「射界の清掃(しゃかいのせいそう)」と称して、街を焼いたのである。明治10年2月19日のことで、政府軍の兵士が街に出て火をつけ、城下は、ほとんどが焼け野原になった。と同時に、天守閣にも火を放ち、御殿や櫓を焼いた。その理由は、まず、城内から城下が一望のもとに見えるようにして、小銃や大砲を思いのままに撃てる作戦をとったのだ。これによって、薩摩軍が街なかの建物を障害物にしてすすんで来られないようにしたり、あちこちの家に潜伏したりすることを未然に防いだのである。また、政府軍の工兵が飯田丸にあった五階櫓をを取り払い砲台を設けるなど、近代戦ができるような城に作りかえていった。さらに、政府軍の兵士は武士階級が低いため、白兵戦なると弱い。司令長官の谷は、薩摩軍を迎え撃つために、相撲大会を行なうなどしてあらかじめ兵士たちの士気を高めたという。

第4章   田原坂の戦い

田原坂・弾痕の家 撮影:泉秀樹

田原坂・弾痕の家 撮影:泉秀樹

熊本城の攻防戦だけでなく、熊本城援護のために派遣されてくる政府軍を、薩摩軍は迎撃しなければならなかった。
吉次峠、山鹿、木葉、稲佐、植木、高瀬などで、両軍の激しい戦いが展開された。そうした戦いのなかで最も激烈な戦いが展開されたのは、田原坂であった。田原坂は全長1.5キロ、道幅4メートル、標高差は80メートルほどの赤土のだらだら坂である。熊本城を北から侵入してくる敵から守るために加藤清正が設計したこの坂道は、所々で故意に湾曲させてある切り通し道であった。この田原坂以外に大砲や物資を積んだ大八車などを引いて熊本城へ行く道はなかったため、薩摩軍はこの田原坂に土塁を設け、横穴を掘って壕とし、防衛陣地を築いて政府軍を待ち伏せたのである。

登場人物プロフィール

西郷隆盛(さいごうたかもり)

西郷隆盛(さいごうたかもり)

文政10年(1827)12月7日。西郷隆盛は鹿児島県の市街を還流する甲突川に沿った下加治屋町(現在の加治屋町)で生まれた。隆盛は幼いころから体格が大きくそのつぶらな瞳は黒曜石のように澄んだ光を放っていた。隆盛は18歳のとき郡方書役助(収税書記見習い)になり10数年間その仕事にたずさわったが藩主・島津斉彬に見出されて御庭方に抜擢され大きな感化を受けた。以後、隆盛は明治維新の主役中の主役になった。

谷干城(たにかんじょう)

谷干城(たにかんじょう)

干城は土佐藩校教授館中御用・谷万七の子として天保8年(1837)土佐・高岡郡窪川に生まれた。西南戦争の功績で陸軍中将に昇進して農商務大臣となった。幼少時から欧化主義に反対する国粋的な思想を保持し貴族院議員になって75歳で死去した。

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