泉秀樹の歴史を歩く

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蒙古襲来・北条時宗の外交【2019年8月】

元寇防塁跡・生の松原 撮影:泉秀樹

元寇防塁跡・生の松原
撮影:泉秀樹

西世界最大にして最強の蒙古帝国の要求を蹴り、使者を斬った若き執権北条時宗は、なぜ戦への道を選んだのか?福岡の浜辺に襲来した蒙古の大軍と日本の武士はどう戦ったのか!遠い昔と今を結ぶ線を辿る。作家・泉秀樹が歴史の現場を取材し独自の視線で人と事件をプロファイルする!

第1章 蒙古からの使者

蒙軍使者と幕府役人:元寇資料館蔵

蒙軍使者と幕府役人:元寇資料館蔵

文永3年(1266)以来、蒙古皇帝フビライは、六度にわたって日本に通商友好を要求してきた。フビライはチンギス・ハンの孫である。高麗を征した蒙古が次に日本に目をつけたのは『東方見聞録』を書いたマルコ・ポーロが「黄金の国ジパング」について語った、夢のような話に刺激されたのかもしれない。日本に勧降使(かんこうし)、つまり日本が蒙古に降伏するように勧める使節がやってきた。極東の島国の、定住型の農耕民族である日本にとって、異国からの、傲慢な干渉は、国家として初めての体験であった。18歳の北条時宗が執権に就任したのは、まさにこのような外圧に対して鎌倉幕府の中枢が右往左往している非常時であった。幕府は無謀にも、蒙古が世界で最強最大の大帝国だと知らずに対抗しようと考えたのである。

第2章  初めての外交と文永の役

元寇防塁跡・生の松原

元寇防塁跡・生の松原

フビライが君臨する蒙古の大軍が300トン級の戦艦900艘に分乗して高麗・合浦(現在の鎮海湾)を出航したのは文永11年(1274)10月3日のことである。蒙古軍・漢軍15000、高麗軍8000、高麗軍水手6700総計約3万の軍勢である。元軍は鉄砲も使った。いわゆる種ケ島以降の鉄砲ではなく、火薬を詰めた陶磁器の球を、棒を使って投げ飛ばす。陶磁器の球は大きな音を立てて空中で爆発し、烈しい炎を発し、そのため、人も馬も殺傷され、爆発音に肝をつぶして戦意を喪失した。蒙古軍に圧倒されて次々と平野部を制圧されていった日本軍は、福岡の15㎞ほど南の水城とよばれる大きな土手まで、ひとまず退却して陣容を立てなおすことにした。その夜暴風雨になり、翌11月21日の朝、白々明けの海を見やると、蒙古軍は消えていた。

第3章  時宗の指南役

円覚寺山門 撮影:泉秀樹

円覚寺山門 撮影:泉秀樹

建治元年(1275)4月15日、正使・杜(と)世(せい)忠(ちゅう)をはじめ使者たちは高麗の通訳をともなって海を渡り、瀬戸内海の室津に着いた。彼らが室津を選んだのは、前回の勧降使たちが太宰府で門前払いされていたためである。直接、京都もしくは鎌倉に向かおうという狙いがあった。しかし、執権である時宗は蒙古に降伏する意志がないことを表すため、断固として強硬手段に出ることにした。9月7日、鎌倉に連行された5人は龍ノ口(江ノ島の渡り口)において首を斬られたのである。弘安元年(1278)建長寺を開創した蘭渓道隆が亡くなったため、時宗は蘭渓の弟子二名を宋に派遣して無学祖元を招請し、祖元は建長寺5世住持に任命された。そして執権北条時宗の指南者となったのである。

第4章   弘安の役・第二次蒙古襲来

円覚寺時宗廟 撮影:泉秀樹

円覚寺時宗廟 撮影:泉秀樹

蒙古が再び襲来する気配が伝わってくると、時宗が自分の血で大般若経600巻を書いて仏前にささげて祖元に褒められた。この逸話は時宗が精神的に祖元の支配下にあったことを良く表している。祖元は祖国・宋を滅ぼした蒙古と講和を結ぶのでなく、幕府執権に対して「司南車」として徹底的に戦えといいつづけたのだ。弘安2年(1279)6月、新しい使者が日本へ送られたが、ただちに処刑された。幕府は、異国からの使者と称する者が港に着いたら捕らえ、首を斬ってさらせという指示を出していたからである。時宗は鎌倉から出ることは無く、九州に指令を下し、戦功のあったものには恩賞を与えると士気を煽り、蒙古襲来に備えた。そして弘安4年(1281)5月、フビライは日本に向けてふたたび出兵した。「弘安の役」の始まりである。

登場人物プロフィール

蒙古皇帝フビライ(もうここうていふびらい)

蒙古皇帝フビライ(もうここうていふびらい)

蒙古皇帝フビライ(惣必烈汗)は1215年チンギス・ハン(成吉思汗)の孫として生まれた。文永3年(1266)以降6度にわたって日本に通商友好を要求してきた。高麗を征したフビライが次に目をつけたのは、豊かだと噂の高い日本であった。日本は当時世界最大の金の産出国であったからだ。文永5年(1268)5月、フビライは高麗王に「食糧を準備し、米四千石をのせることができる艦船を千艘をつくれ」という命令をくだした。これは、日本攻撃とまだ中国南部に残存している南宋を攻撃するためでもあった。そして文永11年(1274)10月3日フビライが君臨する蒙古の大軍が3百トン級の戦艦9百艘に分乗して高麗・合浦(現在の鎮海湾)を出航した。こうして第1次蒙古襲来「文永の役」が始まった。

北条時宗(ほうじょうときむね)

北条時宗(ほうじょうときむね)

時宗は名執権として名高い時頼の嫡子として、建長3年(1251)に生まれました。ちょうど建長寺が開かれた年である。そして弘長3年(1263)11月に時頼が亡くなったとき、時宗はまだ幼かったから、以後の執権・補佐は北条一族の長老格の長時・政村が行っていた。ただし、それは、時宗が成長するまでのつなぎ(暫定的な執権)であった。18歳になった北条時宗が執権に就任したのは、日本が蒙古からの度重なる高圧的な通商友好要求を受け、鎌倉幕府の中枢が右往左往している非常時であった。時宗は無謀にも、蒙古が世界で最強最大の大帝国だと知らずに対抗しようと考えたのだ。

無学祖元(むがくそげん)

無学祖元(むがくそげん)

無学祖元は宋の宝暦2年(1226)明州慶元府(浙江省寧波区)に生まれた。父は官僚貴族で、母は宋の名門の出身であった。13歳のとき、父の死に遭って出家した。兄が先に出家して禅の修業をしていたというから、信仰心の篤い一族であったかもしれない。鎌倉では、弘安元年(1278)建長寺(けんちょうじ)を開創した蘭渓道隆が亡くなったため、時宗は蘭渓の弟子2名を宋に派遣して祖元を招請した。祖元は54歳であった。実は、祖元にとって日本からの招請は渡りに船だった。なぜなら、祖国・宋が滅びて自分の命も危ない状態だったからである。フビライが2度目の日本遠征の準備をしはじめる2年前のことである。弘安元年(1278)8月20日。祖元は鎌倉幕府の将軍の命によってという形で、建長寺五世住持に任命された。

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