泉秀樹の歴史を歩く

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小西行長の野望【2019年10月】

小西行長像(宇土城跡)

小西行長像(宇土城跡)

大阪・堺で薬種商人の家に生まれた小西行長の生涯は謎にみちている。わずかに残された断片的な史料が行長の人生のさまざまな局面における挫折、苦悩と選択をまざまざと語りかけてくるのだ。日本と朝鮮2つの国に挟まれて、商人でありながら武人として生き、関ヶ原の合戦で敗れ悲劇的な死を迎えた男の生涯を追う。

第1章 キリシタンと商売

小西行長の生涯は謎にみちている。行長の父・小西隆佐は堺で薬種商を営んでいた。天正元年(1573)信長が足利十五代将軍・義昭と対立すると、隆佐はフロイスの依頼で信長にキリシタンを保護してほしいと頼む使者の役割も果たした。隆佐は行長を含む一家をあげて洗礼を受けていたのだ。こういうと隆佐がいかにも敬虔な信仰の徒であったように思われるが、それは一面に過ぎない。キリシタンであった方がより大きな貿易の利益を得られるからで、その行動原理はあくまで金銭の計算にもとづいていたのである。天正7年(1579)9月、21歳の行長は、はじめて歴史の檜舞台に登場する。信長配下にあった秀吉が毛利を屈服させるために岡山に進撃したとき、行長が宇喜多直家の講和の使者をつとめた。そしてこの日から、行長は商人から一気に武将に変身していった。

第2章  朝鮮攻略

うとん行長しゃん

うとん行長しゃん

天正16年(1588)行長は加藤清正とともに肥後に封じられた。清正は熊本、肥後の北半国を、行長は宇土(25万石・熊本県宇土市)肥後の南半国を領有することになった。秀吉の命によって、宇土の地をあたえられた行長。そこを泉は訪れ、この地で行長がどのような領主であったのか、その軌跡を追った。行長は新しく宇土城を建設するとともに、港に続く堀を掘削し、水路に沿った碁盤の目状の城下町を整備した。今でこそ行長が宇土に果たした功績が評価され、宇土の大恩人となったが、宇土城跡に小西行長像が建てられた40年前(昭和55年)には、「宇土の神社仏閣を焼き払ったキリシタン大名」と伝えられていた。「銅像を壊す、ペンキを塗りに行く」というクレームの電話が多く市に寄せられたため、除幕式の翌日には、トタンで覆ってしまったのだそうである。

第3章  小西行長の変貌

朝鮮出兵のために、秀吉は、天正19年(1591)10月から肥前・名護屋に巨大な城塞を築いていた。城外二里四方には諸大名の屋敷や陣屋がひしめき、城の北側から海岸線には京・大坂・堺・博多の商人たちが店を連ねて旅籠や遊郭が出現してたいそう賑わったという。この名護屋城が完成した翌年の文禄元年(1592)1月、秀吉は、ついに武将たちに朝鮮出兵の命令を下した。行長が指揮する第一旅団1万8千は、は4月12日朝、進撃を開始した。第一旅団は嵐を突いて釜山に上陸し、翌日の朝、ただちに釜山城を攻略した。釜山城を抜くと、周辺の城も次々と開城させた。しかし行長は1日も早く戦争を終わらせたいと考えていた。行長は秀吉の部下であることをやめて、おのれの野望の実現に生きる決意をした。それは「九州の王」になることであったのだ。

第4章   野望の結末

小西神社(岐阜県揖斐郡春日村中山)

小西神社(岐阜県揖斐郡春日村中山)

朝鮮から帰国した行長を待っていたのは、徳川家康の野心だった。すでに家康は、秀吉が没したあとの日本において、最大の権勢を誇っていた。家康は有力武将と次々に姻戚関係を結び、北政所(ねね)を懐柔し、着々と日本の統治者が座る椅子に向かって階段をのぼっていた。かねてから警戒してこれを阻もうとしていた石田三成は、対抗措置をとった。行長は家康に近づいてはみたものの、結局は三成に加担した。慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の合戦。家康は、半年ほど前に豊後に漂着したウイリアム・アダムスを砲手に起用し、このアダムスが小早川秀秋が陣を構えている松尾山に向かって撃ち込んだ大砲の威力によって、たった1日で勝敗が決した。敗れた行長は逃亡し、伊吹山の東麓の杣道を伝って糟賀部村(岐阜県揖斐郡春日村中山)の山寺に隠れたという。

登場人物プロフィール

小西行長(こにしゆきなが)

小西行長(こにしゆきなが)

小西行長(洗礼名アウゴスティーニュ=アウグスチヌス)の生涯は謎にみちている。行長の父・小西隆佐は堺で薬種商を営んでいた。商人の次男として京都で生まれたのだが、彼がはじめて歴史の檜舞台に登場すのは、天正7年(1579)9月である。21歳の行長は、信長配下にあった秀吉が毛利を屈服させるために岡山に進撃したとき、それまで軍資金の調達係りとして雇われていた宇喜多直家の講和の使者をつとめたのだ。そして、この日から行長は、金融業者から一気に武将に変身していった。自分の力量次第で一国を切り盗ることもできる戦国乱世において、行長が商人から軍人に転身したのは野心ある男として当然であった。天正16年(1588)行長は加藤清正とともに肥後に封じられ、宇土(25万石・熊本県宇土市)を領有することになった。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)

豊臣秀吉(とよとみひでよし)

信長配下にあった秀吉が毛利を屈服させるために岡山に進撃したとき、行長に宇喜多直家の講和の使者をつとめさせた。秀吉は、行長をひと目見て「使える」と感じた。行長を直ちに幕下に組み込んだ事実からも、それははっきりしている。秀吉は行長が加藤清正や福島正則、蜂須賀小六など陸軍型闘将とは異質な、国際的な視野を持つ海軍型外交官、経済官僚の才能に恵まれていることを明敏に見抜いたわけである。こうして行長を介して直家と手を結んだ秀吉は、備中高松城(岡山県岡山市)の攻略に取りかかった。しかし、この備中高松城を水攻めにしているとき、秀吉は、茫然とするほど大きな事件に遭う。本能寺の変で信長が消えたのだ。秀吉は「中国大返し」を行い、山崎の合戦で明智光秀を倒し、賎ケ岳の合戦を経て、覇権に歩一歩と近づいていった。

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