泉秀樹の歴史を歩く

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新選組血風録【2020年11月】

信長・人生最後の旅

今まさに倒れようとしている
徳川幕府のために
新選組は白刃をふるった
それが
武士の道だからだ
命の限り戦った男たちの
血しぶきが風に散り
青空に赤く舞う

第1章

第1章

近藤とウマが合ったのか、土方も広さ二十四畳ほどしかない小さな試衛館(しえいかん)に入門した。安政(あんせい)六年(一八五九)土方二十五歳であった。
そして、この道場で沖田総司(おきたそうじ)、永倉新八(ながくらしんぱち)、原田左之助(はらださのすけ)、山南敬助(やまなみけいすけ)らと親しくなり、武士を目指して剣の修行に励んだ。

第2章

第2章

近藤と土方は、芹沢と相談して「局中法度(きょくちゅうはっと)」を発表した。

一、士道ニ背(そむ)キ間敷(まじ)キコト(武士道に背くようなことをしてはならない)
一、局ヲ脱スルヲ不許(ゆるさず) (新選組からの脱退は許さない)
一、勝手ニ金策致(いたす)不可(べからず) (無断で借金をしてはならない)
一、勝手ニ訴訟取扱(とりあつかう)不可(べからず) (無断で訴訟に関わってはならない)
一、私ノ闘争ヲ不許(ゆるさず) (個人と個人の私闘を許さない)
右条々相背候者切腹申付ベク候也 (右に背く者は切腹を申し渡す)

違反した者は切腹、という厳しいものであった。
それも、バカげた印象を受けるほど厳格に感じられるのは、新しい別の生きかたが手をのばせばそこにあるのに、いまさら武士として生きよう、という時代錯誤(アナクロニズム)のためではないのか。

第3章

第3章

近藤・土方たちの実状はひたすら幕府のために働く犬で、参謀の伊東甲子太郎はこのことが大いに不満だった。かねてから伊東が考えてきた勤王のための運動ができなかったからだ。
このため、静かなる内部抗争がはじまり、結局、慶応三年(一八六七)三月になって伊東たちは分離することになった。

六月には伊東は同志とともに高台寺(こうだいじ)(京都市東山区高台寺)の塔頭(たっちゅう)・月真院(げっしんいん)を屯所とした。
新選組脱退は切腹と定められていたから、伊東ら十三名は孝明天皇の御陵衛士(ごりょうえいし)として新選組を外部から支え、以後は西国浪人(さいごくろうにん)に混じって潜入捜査(せんにゅうそうさ)を行うという理由で分派し他のである。

第4章

第4章

土方は辞世にこういう。

鉾とりて 月見るごとにおもふ哉 あすはかばねの 上に照るかと
よしや身は 蝦夷の島辺に朽ちぬとも 魂は東の 君やまもらむ

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