主君の仇をとる
それだけを考え
それだけを実現するために生きた
四十七士の歴史的美談
その復讐の背後には
誰にも気づかれずに
沈黙を守る
強大な権力者がひそんでいた
午前十一時ごろ、将軍が勅使に奉答する儀式がはじまる直前、
吉良上野介が松の廊下で幕臣と打ち合わせをしているときだった。
上野介の背後から「この間の遺恨、覚えたるか」と
さけびながら斬りかかった男がいた。
饗応役の一人である浅野内匠頭長矩である。
前権大納言で散位(官職外)であった東園基量(ひがしぞの もとかず)は、
刃傷事件を知って日記に
「吉良、死門に赴かず」(吉良は死ななかった)と書き、
内匠頭が切腹させられたことについては
「浅野内匠頭存念を達せず、不便々々」
(内匠頭は思いを達する事ができず、不憫なことだ)と
書き残していることも見逃すことができない。
内蔵助は浅野家の再興を後援してもらうことと、それがかなわなければ、たとえ間接的にでもこれから自分がやろうとすることを、幕府よりも強大な権威に認知後援してもらわなければならないと考えていたということである。
同時に、それは、みずからの行動とその動機に正当性をあたえ、同志を結束させるための精神的な核や芯ともなる拠りどころを確保することになるから、近衛基煕とつなぎをつけることは内蔵助にとってはどうしても必要なことだった。
将軍・綱吉は「処罰派」の意見をとり入れ、結局、討ち入りから
約五十日後の二月四日に四十七士はそれぞれ預けられた大名家で
切腹した。
切腹の跡は、首を斬ったときの血がしみこみ、汚れてしまって
さぞ凄かったことだろうが、家来たちがそこを掃除して
浄めようとすると、細川綱利は「諸士は吾藩の氏神なり」といって
切腹したあとの掃除もさせず、土をそのままにしておいた。
それほど浪士たちを熱狂的に支持していたのである。
この番組をシェアする!