幼いころから人質生活を送り
二十歳で信長と同盟し
本能寺の変を境として
天下取りの戦いに頭角をあらわした男
待ち
攻め
知謀(ちぼう)の罠を仕掛け
信長・秀吉を超えて
ついには天下を我がものにした
覇王(はおう)の戦いとは
徳川家康は、
天文十一年(一五四二)十月二十六日、
三河・岡崎城(愛知県岡崎市)の城主・松平広忠の
長男として生まれた。
当時、弱小だった三河・松平氏は、
東の駿河・遠江を領する今川と、
西の尾張・織田にはさまれて身動きがとれない状況下にだった。
天文十六年(一五四七)
信長の父である織田信秀が突然三河に攻め込むと、
松平広忠はやむなく今川義元に応援を求めた。
今川義元は、広忠の願いを受け容れるが、
ただし広忠の息子の竹千代(家康の幼名)を人質に出せと要求した。
家康はそれまで武田勝頼に占領されていた高天神城(たかてんじんじょう)(静岡県掛川市上土方)を攻め、これを陥落させた。
このとき、かつて今川氏の家臣だった孕石主水(はらみいし もんど)も武田の一員として、城中にいた。鷹の糞や獲物が庭に落ちることを嫌がって、少年の家康に「三河の小倅(こせがれ)にはあきあきしたわ」といい放った人物である。
今川義元が桶狭間で戦死したあと、武田氏に属していたのだ。
その主水は高天神城から逃げ出したが、すぐ捕縛(ほばく)された。
家康はこの主水に切腹を申しつけた。降伏した者で切腹を命じられたのは主水ひとりである。恨み骨髄(うらみこつずい)であった。
しかし、家康のこの粘っこい、執念深い性格が天下取りに役立ったともいえるだろう。
慶長五年(一六〇〇)九月一五日の関ヶ原の合戦は、結局、小早川秀秋の東軍への寝返りによって、あっけなく一日で東軍の勝利に終わった。
大坂城にもどった家康は、まず秀頼に会って勝利を報告した。
家康は、関ヶ原の合戦後は豊臣家の五大老筆頭という立場から、天下人に脱皮したのである。
一方、豊臣家は摂津・河内・和泉三か国六十五万四千石余の、実質的には一大名に転落した格好になった。
といっても、秀頼母子は天下の名城・大坂城に拠る権威であり、
なによりも秀吉が残した莫大な金銀を所有していた。
大坂城の焼け跡には、金二万八千六十枚、銀二万四千枚が残されていた(『駿府記』)。莫大な遺産であり、これは名実ともに戦国の覇王となった家康が没収した。
こうして豊臣氏を完全に滅ぼした家康は、
大坂城落城から約一か月後の
閏(うるう)六月十三日「一国一城令」を発布した。
各大名は居城だけを残して自領内にあるほかの城は破却せよ、
という命令である。
これによって軍事拠点を失った大名たちは徳川幕府に完全に
服従せざるを得なくなった。
朝廷に対しては「禁中并公家諸法度」を押しつけて
天皇・公家を規制し、武家は「武家諸法度」で縛った。
同じ年の七月十三日、世は慶長から元和に変わり
「元和偃武」の時代に入っていった。
武器を蔵におさめた平和な時代が到来した、という意味である。
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