泉秀樹の歴史を歩く

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源氏三代・その栄光と悲劇【年末年始スペシャル】

頼朝は千幡が生まれて一カ月後に征夷大将軍に任じられており、源家は昇天旭日の勢いであった。
だが、頼朝が没し、長男・頼家が将軍になり、比企能員の乱が起こった。
北条時政が、対立していた比企能員を殺し、つづいて小御所(神奈川県鎌倉市大町・妙本寺)を攻めて頼家の側妾・若狭局と、子の一幡をはじめ、比企一族八百余人を皆殺しにした事件である。
このとき頼家は病気で死にかけており、奇跡的に恢復したのだが、北条時政や政子は朝廷に頼家はすでに死んだので新しい将軍は、次男の千幡であると届けた。比企氏との対抗上の虚偽の措置であった。
頼家は無理やり出家させられ、伊豆・修善寺に流され暗殺された。

建仁3年(1203) 9月10日、千幡、いや、実朝の身柄は政子のもとから北条時政邸に移された。
時政と後妻の牧の方は実朝を切り札として手元に置いておきたい理由があった。

千幡は、12歳で従五位下の位と征夷大将軍の地位に就き、後鳥羽上皇から「実朝」という実名を下賜された。

翌年の元久元年(1204)12月、13歳の実朝は京から来た坊門信清の娘・信子を正室に迎えた。
時政は大江広元とともに政所別当(執権)に就任した。
ここに執権政治が始まったのである。

実朝があまりにも官位の昇進に執着しすぎるので、大江広元が幕府執権・北条義時の意を体して位は征夷大将軍だけにしておいた方がいいのではないかといさめると、実朝は源氏は自分の代で終わってしまうのだから、大いに立身出世して家名をあげて一門のほまれにしたいのだとこたえた。
実朝は北条氏が大きくのさばることを朝廷の力を借りておさえはしていたものの、同時に自分の命が長くないことも予感していた気配である。

右大臣就任拝賀の式典を終えた源実朝が雪の降り積もった拝殿前の石段を降りて行くと、兜金をつけて髪をふり乱した法師が銀杏の木の陰からとび出して斬りかかった。
その男のほかにも3、4人の法師が松明を掲げて先導している者に襲いかかって斬り伏せた。

実朝は28歳で死亡した。
実朝の首は暗殺者・源公暁が持ち去った。 
20歳の公暁は鶴岡八幡宮の別当であり実朝の兄・頼家の子だから実朝は甥に殺されたのである。

謎の多い暗殺事件であり、この事件によって源氏の正統は滅亡してしまった。
建保7年(1219)1月27日のことだった。

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