泉秀樹の歴史を歩く

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幕末の異端児 高杉晋作【2022年2月】


天保10年(1839)長門国(山口県)萩の菊屋横丁(萩市呉服町)に住む毛利藩士・高杉小忠太の妻・みちが嫡男・晋作を生んだ。
小忠太は、藩主・毛利敬親の側近として仕える中級武士で、菊屋横町にある屋敷は小体な庭や門、井戸や築地塀などとともに現在もそのころの面影をそのまま残し、生活ぶりがしのばれる。

22歳の晋作は山口奉行・井上平右衛門の「萩一の美人」といわれていた16歳の次女・雅子と結婚した。万延元年(1860)のことである。
晋作が旅に出た。晋作の真の目的は、質の高い情報を足で集めることだった。
そして、この旅は、晋作の人生と日本を根本的に変革することになった。
この旅で晋作は学識を深め、自分がどう生きるのか、なんのために行動するかを学び取り、自分の不勉強を思い知らされた。
優れた人物と出会って語り合う「試撃行」は晋作の思想と心の芯が形作られた重要な旅になったといえる。
同時に、自信と自己顕示欲の強い「自己中」的なわがままな烈しさも、しだいに晋作の性格のなかに蓄積されていった。

晋作は、外国人が多く往来する長崎で英米仏の外国人を訪ねて西欧事情をたずね、国際貿易の実情を探った。
情報をつかんで分析してはじめて正確な将来の見通しを立てることができる。
手に入る情報量が限られていた当時に、国内外の情報をつかむことは何よりも重要な仕事だった。

欧列強の動静を見ると、今のまま攘夷をとなえるばかりならば、やがては日本も清国と同じ運命をたどらなければならない。
そして、日本が植民地にされないためには、外国から優秀な兵器や軍艦を購入し、長州の富国強兵をはかって、幕府を倒さなければならないと晋作は考えた。

かくして晋作は長崎へ帰着したと同時に、2万両のオランダ商人の蒸気商船を購入する契約を、独断で決めてしまった。
無論、藩の重臣たちは首を横に振った。
もともと2万両などという大金を使う権限など晋作にはないのだから、当然の反応だ。揉めているうちにこの話はオランダ側がご破算にした。
晋作の金銭感覚はデタラメだった。

文久3年(1863)、晋作は下関の遊郭・堺屋の遊女・おウノ(源氏名・此の糸)と出会った。
おウノ側からすれば、出会った男はいまをときめく長州藩の「時の人」となった高杉晋作であったわけである。
武家出身の雅子より、晋作はおウノを深く愛し、可能なかぎりおウノをそばにおいてすごした。
しかし、晋作の労咳(肺結核)はかなり重くなっていた。

晋作は下関から長崎へ赴いた。
英国商人グラバーに海外渡航のことを話した。
すると、いまは洋行すべき時期ではないとグラバーは晋作を説得した。
すると、晋作はグラバーの持っていた軍艦を、今度も、藩主にも重役衆にも無断で、独断で買った。
前回のオランダとは契約流れになったが、今回はそのオテントサマ丸の艦長となって勝手に下関へ乗りつけた。
藩は仰天した。重臣は感情的になって軍艦の代金は払わない。
さすがの晋作も困ったが、ここで井上聞多が助けた。
「晋作は俗論党を一掃して、藩論を勤王倒幕に統一した。その功績に五百両くらい払ってもいいだろう。オテントサマ丸も買いとって、藩の軍艦にしようではないか」と重臣たちを説き伏せてくれた。
オテントサマ丸は長州藩の購入艦として毛利藩が買い取って丙寅丸と名づけられた。

偶然か必然か、こうした晋作の狂気は、時代の要求(ニーズ)にかなっていた。
晋作というデタラメな短絡する「狂生」がいなければ明治維新は来なかったといえるかもしれない。

晋作の胸を蝕んでいた労咳(肺結核)は、きわめて重篤なところまで進んでいた。
おウノは献身的に看病をしたが、どうにもならなかった。
慶応3年(1867)3月には病状が悪化し、妻子が呼び寄せられた。
晋作が指揮した小倉口の戦いが終結した3か月後の4月13日、午前2時である。
晋作は肺結核によって満29歳という短い生涯を終えた。

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