泉秀樹の歴史を歩く

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軍師・竹中半兵衛【2022年3月】

竹中重元は、もともと美濃国(岐阜県)の斉藤道三に仕えていて、半兵衛はその重元の長子で、優しく、性格も温順で、細かいことにこだわらない鷹揚な性格だった。

弘治2年(1556)4月「長良川の戦い」で道三が息子の義龍によって殺されるという事件が起こった。
屋敷に襲いかかってきた義龍側の軍勢に対して母は薙刀を振るい、13歳の半兵衛と11歳の久作に鉄砲を持たせて敵を迎撃させた。
これが半兵衛の初陣であり、軍師としての出発点になったと思われる。

永禄5年(1562)2月、重元が亡くなった。
半兵衛は十九歳で家督を相続し、菩提山城主となり、斉藤義龍に仕えた。

このころ隣国・尾張の織田信長はしきりに美濃に侵入していたが、永禄6年(1563)にも侵攻してきた。
これを迎え撃つとき、半兵衛は斉藤龍興に「十面埋伏の陣」を敷くのがよいと献策した。

この「十面埋伏の陣」は『三国志』の曹操と袁紹が黄河近くの倉亭で戦ったとき、程昱が献策した戦い方である。
十隊の将兵をあちこちに伏兵として潜ませておき、敵軍が通過したとき一隊が背後から襲いかかり、混乱に陥ったところを、残り九隊が四方八方から攻めかかる、という包囲陣形の作戦である。
信長軍はこの陣構えの罠にかかって敗北し、尾張へ逃げ帰ったという。

日本史上最強の軍師は誰かと尋ねると「豊臣秀吉に両兵衛あり」といわれた竹中半兵衛と黒田官兵衛の名を挙げる人が多い。
理想の軍師であり、参謀の鑑とされる両者がいなければ、いかに強運の出世男・秀吉といえども戦国乱世において天下統一はおぼつかなかったにちがいない。
とくに36歳にしてこの世を去った薄命の補佐役・竹中半兵衛は、戦に勝つ必須条件を「個人の戦闘能力の向上」から「戦略の構築力の強化」へと進化させて「戦略参謀」という新しい概念を確立した。
まさに天才軍師であったといえる。
その天才軍師・竹中半兵衛の名を歴史に刻んだ理由の一つに、武将としての栄達への野心を生涯抱かなかったことが挙げられるだろう。

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