泉秀樹の歴史を歩く

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義経の謎【2022年4月】

義経が22歳になったとき、頼朝が伊豆で挙兵し、石橋山の合戦に敗れ、房総に渡り、武蔵へ進出して鎌倉へ入り、さらに西へ侵攻した情報を得た義経は、藤原秀衡の反対を押し切って平泉から黄瀬川の頼朝の陣へ馳せつけた。

(愛媛県今治市大三島町・大山)大山祇神社に、義経の鎧が奉納されているが、鎧の寸法から割り出すと身長は147cmくらいで、義経はかなりな小男だった。
20歳ちょっとくらいの、得体の知れない色白な若者が、大将の頼朝殿にあわせてくれ、といっても、誰も取りつぐはずがない。
さらに義経はかなりの出っ歯だったそうで、あまり立派な印象をあたえる顔立ちではなかった。

本営の前で番兵たちと押し問答になり、やがて、その話を聞いた頼朝自身が気がついて、ようやく面会することになった。

そうして顔を合わせて話をして、血のつながった兄弟とわかると、お互いそれまでの苦労を思い合って、二人とも涙を流して泣き、その様子を見たまわりにいた者も、もらい泣きしたという。

その後の義経の活躍は大変めざましいものがあった。
しかし手をとりあって兄弟の出会いを喜び合ってから5年後。
壇ノ浦の合戦に大勝した義経は、頼朝の命令で捕虜にした平宗盛父子を意気揚々と護送して東へ下り、元暦2年(1185)5月7日、酒匂宿(神奈川県小田原市)に到着した。

ところが、酒匂まで進むと、頼朝の返事は、鎌倉には来なくていい、ということで、平宗盛父子の身柄は北条時政が酒匂まで受け取りに来た。
義経に宗盛父子を護送してくるようにと命じておきながら鎌倉には入るなといわれた義経は、酒匂宿に止めおかれた。

義経には決定的な落ち度があった。
義経は頼朝の許可なく後白河法皇から五位尉の位を受けた。
本来ならば、鎌倉幕府を代表する頼朝が朝廷に推挙してはじめてあたえられる。
朝廷の位階とはそういう手続きを必要とする。
しかし、義経は直接もらってしまった。

この背後には、狡知に長けた後白河法皇の策謀があった。後白河は源一族の分裂を画策していたのだ。

義経は山伏姿に身をやつして最終的に奥州・平泉(岩手県西磐井郡)の藤原氏のもとに逃げこんだ。
藤原氏の当主・秀衡は、逃げ込んできた義経を衣川の高館に入れて厚遇した。
が、まもなく秀衡が病没すると、嫡子の泰衡は掌を返し、義経邸があった衣川を急襲した。

文治5年(1189)5月、義経は高館で自刃して31歳の人生を終えた。

だが話はこれだけでは終わらない。
義経は衣川の高館から逃亡したというのだ。

義経は北海道へ逃げた。義経の焼け首は酒にひたしてあったというが、死後43日も暑い季節(新暦の6月後半から7月の前半にかけて)を過しているから、腐ってしまって誰の首かわからない状態になっていたのではないかというのだ。
そして、義経は平泉から三陸海岸を北へ向って八戸に出て津軽半島へ逃げたと言う。
遠回りだが、追捕から逃れるための作戦だという。
そしてこの逃亡経路の各地には義経伝説がたくさん残っている。

その後、義経が中国大陸へ渡ったという説があるが、最も有名なのは大正13年(1924)に出版された陸軍通訳官・小谷部全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』という本だ。

小谷部はエール大学に留学して哲学を学び、帰国後は北海道に住んでアイヌとともに生活し、その研究を行った。
日本が大陸への領土拡大の野心を膨らませていた時代、小谷部はシベリアへ赴き、ジンギスカンが義経である証拠を探した。

小谷部は、義経がジンギスカンである証明として、ジンギスカンがニロンという一族の出身であるという。ニロンとは日本のことであるというのだ。
姓はゲン、名はクロー。源九郎義経のゲンクローと同じである。

果たしてジンギスカンと義経は同一人物だったのか!?

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