泉秀樹の歴史を歩く

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信長 王手をかけるまで(後編)【2022年6月】

岩倉城の織田信安の父子の間に異変が起った。
織田信安が、次男・信家に家督を継がせようとしたのだ。
織田信安は、信長が道三を支援するために美濃へ出陣している留守を狙って清洲の町に放火したり、信勝が叛旗をひるがえして名塚砦を中心に戦ったとき信勝についた人物である。

だが、これを不満とする信安の長男・信賢は叛旗をひるがえし、父と弟を追放してしまった。
その内部抗争に乗じた信長は、従兄弟で犬山城主の織田信清と連絡をとりあって戦うことにした。
信清は信長の父・信秀の弟・信康の子で、信長の姉の夫である。
信長は7月12日に2千の軍を浮野(愛知県一宮市千秋町)へ進めた。
浮野に布陣した信長は、蜂須賀小六らとともに木曾川のほとりの伊木山(岐阜県各務原市)に登った。
信長は山頂から川をはさんで筋向かいにある犬山城(愛知県犬山市)の方をながめたり「あれが小牧山、あれは稲葉山か」と至極ご満悦だった。

余裕があったのだろう。
このとき供の者が山で採れた芋でとろろ汁をつくり、信長に献じた。信長は「うまい、うまい」とおかわりをし、みずから近臣たちに給仕までしてやった。
酒をくみかわすうちに、いい気分になった信長は「おまえたちは戦もせず、芋掘りばかりしておるではないか。芋侍よ、芋掘り侍よ」と囃したてた。
緊張が連続している陣中に明るい笑い声が湧き上がった。
そういう様子に、身分の上下にこだわらない信長の本質を見る思いがする。
緊張して空気が張り詰めている戦争の現場の、ちょっとした息抜きの時を作る細やかな配慮であったともいえよう。

こうした気分でいた信長軍に加勢して犬山城の信清も千の兵を出したから、同盟軍は計三千になった。
岩倉城の信賢も美濃の斉藤義龍と結んで三千の兵で出撃し、両軍は浮野で激突した。
兵の数は同等だったが、信賢軍は全軍一丸となる統制がとれていなかった。
そのため信長・信清同盟軍に大敗し、岩倉城まで追い詰められて多くが戦死した。

信長・信清側は、信長に鉄砲の技術を教えた名人の橋本一巴が、敵方の弓の名手・林弥七郎と一対一で戦って相討ちになって死んだ。
結果は千二百五十の首級を挙げる大勝だった。
この浮野の戦いで勝利をおさめた信長は、信賢が逃げ込んだ岩倉城を完全に包囲し、これで尾張の上四郡を支配していた岩倉城の織田伊勢守家は壊滅的な打撃を受けて没落した。
信長にさらなる勢いがついた。

この年25歳になった信長は尾張統一に王手をかけた格好である。

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