泉秀樹の歴史を歩く

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偉大な三代目 北条氏康【2022年7月】

武田信玄が5千の騎馬軍団を先頭に2万の兵をひきいて甲府を進発したのは、永禄12年(1569)9月初旬である。
信玄の命令は、行く手に立ちふさがる敵を徹底的に潰滅させる必要はない、強さを誇示するに止め、甲州軍のおそろしさを知らしめるだけでよい、というものだった。
その軍事力に絶大な自信がなければ出せない言葉で、信玄は、すでにこのとき、京へ上って、朝廷から総理総裁の指名を受けるのは自分であると考えていた。

軍団は碓氷峠を越えて上野に入り、武蔵・鉢形城(北条氏康=埼玉県大里郡寄居町)を攻め、転じて滝山城(北条氏照=八王子市)に向かう。
別働隊の小山田信茂は、小仏峠を踏破して滝山城を目ざし、信玄の本隊と合流して城の攻撃を開始した。
しかし、滝山城は万般の準備を整えて甲州軍を迎撃し、容易に落ちなかった。
信玄は再び方向を転じて南下し、相模川を渡り、厚木、平塚経由で北条氏の本拠・小田原城に迫った。10月1日未明のことで、甲州軍は風祭、色、酒匂、蓮池などに火を放って、派手々々しく軍威のデモンストレーションを行った。

豪胆賢明な北条氏康は動じなかった。
8年前の謙信が10万余の軍団で小田原を囲み、40日をかけても抜くことができなかった小田原城を、いかに強豪とはいえ、信玄も容易には落とすことはできなかった。

またそれだけではない。
氏康には自信があったんだろう。
少年期から容姿、品位は父の氏綱よりも秀れているといわれ、作戦、弓馬の術、膂力にもめぐまれ、顔に二筋と全身に七カ所の刀創は「氏康疵」とたたえられているほど勇猛果敢だった。
いざ戦いになれば、真っ先きって戦ってきた勇将であり、野戦になっても手ごわい敵であることは、川越夜戦の大勝という武勲もあるから、信玄もよく知っているはずだった。
つまり、信玄と氏康は、お互いの資質をよく知り合っていた、ということだろう。
攻守ところを変えてはいますが、二人は同じ困難な時代を生き抜いてきた盟友であり、肩をならべ、手をつなぐようにして上杉憲勝が立てこもる松山城(埼玉県比企郡吉見町)を攻め落としたこともあるので、当然のことながら、そこにはお互いを認め合う気持、友情もあったと思われる。

信玄は、3日間静かに城を包囲していたが、4日目には陣を解いた。
兵を撤退させ、鎌倉の鶴岡八幡宮に向かうと見せかけた。
というのは、巧妙な情報作戦で、実は夜の間に大磯、平塚、八幡経由で厚木に出て、相模川を渡り、三増峠(神奈川県愛甲郡と津久井郡の境の峠=標高330㍍)へ移動していった。
撤退の理由は、謙信のときと同様、食糧の不足であり、背後から襲われることを警戒したためである。

鎌倉へ向かう信玄を追撃するつもりでいた氏康は、武田軍が三増峠へ引いたことを知ると、ただちに宿将の北条氏忠・氏邦、上田朝直、原胤貞らに追跡を命じ、これらの諸将は追いつくと同時に戦闘を開始した。
10月6日のことである。

しかし、周到な信玄は、三増峠に堅固な砦を築いておき、追跡軍の攻撃に応じた。
北条軍はこれを攻めたてて善戦し、信玄の従弟の浅利信種をはじめとする多数の将兵を討ち取った。
しかし、甲州軍は山岳戦を得意としていた。
山県昌景の遊軍5千が志田沢を迂回して北条勢を破り、信玄は中峠から韮尾根に下って串川、長竹村を経由、道志川を渡って逃げ切ろうとしていた。

氏康・氏政父子は、浅利信種が戦死したという報に接するや、急遽2万余の軍をひきいて三増峠に向かったが、信玄は、さらに伏兵を用意していた。
山中にひそんでいた山県昌景、内藤昌豊らに押し返されたところをさらに両側から挟撃され、北条軍は蹴散らされてしまった。
氏康たちが戦場に到着したときには、すでに勝敗は決しており、信玄軍は北条方の戦死者3,269級の首実検を済ませたあとだった。
北条軍の完敗だった。

氏康父子はやむなく小田原へ帰り、信玄は悠々と鼠坂、名倉を経て甲府の館に帰っていった。
これが、永禄12年(1569)10月8日の「三増峠の戦い」である。

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