泉秀樹の歴史を歩く

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伊達政宗 ヨーロッパ進出作戦【2022年8月】

伊達政宗は、永禄10年(1567)8月3日、米沢城(山形県)で生まれた。
父は伊達16代・輝宗、母は山形城主・最上義守の娘・義姫(保春院)。
東奥の名門であり、生まれながらの「王」であった。

しかし、その幸福に、次々と不幸が襲いかかり、政宗の成長期は作り話よりも波瀾にみちていた。
まず、疱瘡の毒によって、右目を失明した。終生、政宗は隻眼であることに苦しむことになった。
天正12年(1584)10月、輝宗は18歳の政宗に家督をゆずったが、翌年10月に再び悲劇が襲った。
かねてから対立していた二本松城(西安達)の畠山義継が和睦・隆伏を申し込み、これに応じた輝宗を誘拐したのである。

政宗は追撃し、義継を阿武隈川畔・高田原で追いついて包囲したが、ついには父親もろとも射殺した。
戦国の非情さを、政宗が胸の底から思い知らされた事件であった。
というより、非情に生きることをみずからに課すことになった事件である。

以後の数年間は、政宗は、安達郡から南の十数郡、福島、宮城、山形にわたる広大な領土を確保した。
そして、さらに常陸の佐竹を侵攻し、小田原北条と組めば、奥州と関東、日本の北半分を支配できると考えていた。
が、この計画は、秀吉にはばまれた。
天正18年(1590)正月、秀吉から小田原城を攻撃するから参陣せよという命令が届いたからである。
政宗は、しかし、これに応じなかった。
それどころか、秀吉陣営に属していた黒川城(会津)の芦名義広を討った。
父・輝宗を騙した畠山に味方した芦名を討ったのは敵討ちであるという大義名分があったが、明らかに秀吉に対する反抗であった。

そして、さらに小田原参陣に遅れる事件が起こった。
不幸が三度、政宗を襲ったのだ。
母・保春院が、弟・小次郎を立てようとしたのである。政宗はこの実弟を惨殺、母を米沢に追放(のちに仙台にもどった)した。

こうして参陣が遅れたことを秀吉は激怒し、政宗が小田原へ赴くと、会見もゆるさず箱根・底倉の宿舎へ閉じこめた。
このとき、政宗は「田舎者ゆえ礼儀をわきまえない。千利休に茶の湯を習いたい」と前田利家に告げ、秀吉はそれを聞いて引見することになった、と伝えられている。
火急のときに政宗という奴はいい度胸だ、というわけである。

家康、利家をはじめ、諸大名が居ならぶ席上、秀吉は、末席にひかえている政宗を杖で指して「政宗々々」と声をかけた。「是へ々々」と招いたのだ。
政宗は脇差を抜いて知人に預け、一間(約2メートル)ほどの場所まで近づいて挨拶した。
そのときの様子が『政宗記』に残されている。
「脇差の抜やう、扨御挨拶のふり、誠に悪びれたる気色もなく、田舎人なれども、聞き及びたる程の者也」
田舎者だが、噂にたがわぬ堂々とした男だ。秀吉がそういった、というのだ。
片目ながら政宗の雄渾さ、大胆さ、そして繊細さを、55歳の秀吉は鋭く見抜いた。
24歳の政宗を、いっぺんに気に入って、鏑藤四郎作の名刀をあたえたのだ。
これによって政宗は、陸奥54郡、出羽12郡、計66郡の約半分を所有する大名として認められたのである。

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