泉秀樹の歴史を歩く

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山田長政 王になった侍の一生【2022年10月】

山田長政がソンタム王の君臨するアユタヤの日本人町の頭領になったのは元和7年(1621)31歳のときであった。
この年、かねてから対立していたオランダとポルトガルが交戦状態に入った。
オランダ艦隊が東洋におけるポルトガルの重要な拠点になっていたマカオを攻撃したことがきっかけになったのである。
ポルトガルはマニラに集結していたスペイン艦隊に応援を求めて同盟し、オランダを撃退すると、余勢をかってメナム川に侵入した。

ハムテビア(バンコク市のバン・チャウパイア)に拠って河口一帯を警備していた長政は、ただちに出動した。
そして、日本兵を中核とするシャム兵への混成部隊を指揮してスペイン艦を強襲し、火を放ち、炎上させて、これを撃退し、一挙に山田長政の名をあげた。

ソンタム王はこれを賞して長政をクンチャスン(男爵)に任じ、日本人町頭領を三代目・城井久右衛門から長政に代変りさせた。

日本では駕籠かきも勤まらなかったヤクザなあぶれ者が腕っぷしひとつで陽のあたる場所に這い上がった。
そしてその長政を、ソンタム王は抜け目なく利用した。

ソンタム王は同じ元和7年に、徳川秀忠に対して使節を送ったが、国書に次のように書かせた。
「数年来日本の商船絶えず、国王はこれを優遇すること国人にも過ぎ、王はさらに官吏に命じてこれが便宜を図らしめると共に、更に在留日本人の一人を抜擢してこれが頭領となし、位階第四階に叙した」(三木公平訳)

長政を貴族に叙したが、ことほどさように日本人を重く用いている当国と大いに通商しましょうというたくみな外交だった。
そして、長政もこの機会を利用しようとした。
故郷に錦を飾ろうとしたのだった。
長政は日本へ行く使節に伊藤久太夫という家来を加えて書簡や献上物を老中・土井利勝宛に贈り、シャム・日本の国交、親善のために努力した。
要するに幕府に自分がシャムでこれほど活躍しており、高い地位にのぼったということを認知させようとしたわけだ。
すでに幕府は海外に流れ出した日本人については、日本人として認めないとする棄民の方針を立てていたから意味はなかったのだが。

翌元和8年(1622)にも事件が起こった。
カンボジアに遠征したソンタム王が惨敗して命からがら逃げ帰ったのである。

大坂落城と豊臣方大名の改易によって大量に発生した浪人がカンボジアに渡って傭兵になっていたからで、ソンタム王は将軍・秀忠に宛てた元和9年の国書に「日暹関係に累をおよぼすゆえ、(カンボジアへの)渡航参戦を禁止されたい」と要請したほどだった。
日本兵が勝敗を左右するほど精強であることに徴りたためであり、これに対抗するためにソンタム王はシャムにも日本人部隊を中心とする強力な軍団をつくりあげたいと考えた。
そして、長政がその指揮官に任じられ、ほどなく長政はオークプラ、伯爵に叙された。
ソンタム王の信頼を得た長政は、貿易商としても成功をおさめていく。

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