泉秀樹の歴史を歩く

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家康という生き方 野望篇【2023年1月】

織田信長が安土城(滋賀県)を出発したのは天正10年(1583)3月5日である。
信長は、岐阜、犬山(愛知)を経て岩村(岐阜)へと軍馬を進めた。
『信長公記』では、この4月10日から家康が登場する。
家康は信長から駿河一国をあたえられており、その礼に来て、信長を接待するのだ。
それは、並の接待ではなかった。
信長軍のかついでいる鉄砲が道の両側の竹や木にひっかからないように枝や葉を切り払い、道の幅をひろげ「左右にひしと透間なく警固を置かれ、石を退け、水をそゝぎ」陣屋をしっかりとつくらせて、用心のため二重三重に柵で囲んだ。

さらに、その陣屋の周囲には、兵の小屋を千軒以上も建て、食べ物もすべて用意した。
信長は上機嫌で「奇特(きわめて褒めるべきこと)と御感なされ候キ」という。
右左口峠を越えて上九一色村、精進湖や本栖湖のほとりを南下してゆく信長は、左手に聳える富士を眺めながら進んだ。
家康は至れりつくせりの接待をしつづけた。
大宮(浅間神社・静岡県富士宮市)に着いたときは、社内に御座所を設けておいた。
一夜しか泊まらないのに、金銀をちりばめた陣所を建てておいたのである。
将兵たちも丁寧に接待したので、信長は秘蔵していた脇差(吉光作)と長刀(一文字作)黒斑の馬を家康にあたえた。
家康は引きつづき蒲原にも茶屋をつくって酒肴を用意し、宇津谷峠の入口には館を建てておいて酒肴を献じ、という念の入ったもてなしぶりで、信長の満足そうな顔が目にうかぶ。
やがて、大井川にさしかかると、信長は馬で流れを渡ったが、その上流には家康の家来のなかから選び出された泳ぎのうまい男たちがずらりと立ち並んでいた。
川を渡る信長とその軍勢に支障がないように、家康は上流に家来を横一列に、肩を組ませ、何重にもたがい違いに立たせて大井川の水の流れを弱めて、なにかあったときにはすぐ対応できるようにしたのだ。

これほどまで繊細に上司や先輩に気を遣った例を、日本史の史科のなかから見つけ出すのは難しい。
家康がどんなに律儀に信長につくしたか、どれほど深く信長を尊敬し、おそれていたかがよく理解できる場面である。
しかし、家康のこの行き届いた配慮が、結局は信長を油断させて無防備で本能寺へ行かせる原因のひとつになったのではないか。

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