2024年10月21日(月)更新
羽生結弦が問いかける「生命倫理」
「魂を込めた」滑りの先にあるもの
プロフィギュアスケーター羽生結弦選手が出演・制作総指揮を執る「Yuzuru Hanyu ICE STORY 3rd―Echoes of Life― TOUR」の開催日程が決まりました。羽生選手の誕生日である12月7日に埼玉公演(12月7、9、11日)がスタートし、広島(2025年1月3、5日)、千葉(2月7、9日)を回ります。
「生きている」ことの価値
「Echoes of Life」公式サイトに、羽生選手からのメッセージが紹介されていました。
<ふと目を外に向ければ、私たち自身を見失ってしまうような、情報に溢れた社会の中、自分の痛みも他人の痛みも感じ続けてしまうような世の中で、「命」とは何か。「わたし」とは何か。そんな途方もない問いへのヒントになりたいと思い、物語とプログラムを綴りました>
他人の痛みを、自分の痛みと感じることができていれば、戦地や紛争地と化した世界の至る所で、あれだけ多くの子どもたちの命が失われることはなかったでしょう。
羽生選手は物心がついた頃から、「生きている」ことについて、漠然と考えてきたといいます。他人の痛みを、自分の痛みとしてとらえ、それを「内面化」する過程で、慈愛の精神が育まれていったのでしょう。
羽生選手は、「生きている」ことの価値を、氷上で表現し続けています。競技会を卒業し、プロフィギュアスケーターを名乗るようになって以降、彼のパフォーマンスはより強いメッセージ性を帯びるようになっていきました。羽生選手は「生命倫理」という言葉を使って「生きている」ことの根源的な尊さを訴え続けているようにも感じられます。
<きっと、私にしかできないなんてことは、この世には存在しないと思います。AIやテクノロジーが発展している今、人間にしかできないこともどんどんとなくなり始めています>
この一文は意味深長です。
今から28年前の1996年7月、英国で「ドリー」と名付けられたクローン羊が誕生しました。クローンの語源はギリシャ語の「Klon」、小枝という意味です。生物学的には、元の生物個体と同じ遺伝子情報を持つ、枝分かれしたもうひとつの個体ということになります。「ドリー」は死んだ成羊の乳腺細胞を使って誕生しました。哺乳類としては、世界初のクローン動物でした。
「創造的な一瞬」
これは「遺伝子工学の最高の果実」と讃えられる一方で、学者や宗教家の中には「生命倫理上、越えてはならない一線を越えてしまった」と批判的な立場を取る者もおり、ちょっとした論争に発展しました。
同じ手法を用いれば、クローン人間の作製も可能です。「ドリー」の誕生から間もなくして、サッカーのイングランド代表の指揮を執るケビン・キーガン監督(当時)から、こんな発言が飛び出しました。
「もしクローン人間ができるのなら、デイビッド・ベッカムをもうひとりつくり、ひとりを右サイド、もうひとりを中央に置くんだ」
キーガン監督にすれば、軽い冗談のつもりだったのでしょうが、これは笑えませんでした。早速、悪ノリする人々が現れ、「マイケル・ジョーダンのクローンをつくろう」「いや、モハメド・アリだ」と笑うに笑えないジョークが世界中を駆け巡りました。今なら「羽生選手のクローンを!」と不謹慎な呼びかけをする人が現れても不思議ではありません。
再び羽生選手のコメントを引きます。
<ただきっと、創り上げていくチームと、公演を観てくださる皆さんと一緒なら、その一瞬は「私たち」にしかできないことに変わると信じています>
仮に遺伝子工学がさらなる進化を遂げ、クローン人間が容易につくれるようになったとしても、演者と観客が一体となっての「創造的な一瞬」を生み出すことはできないでしょう。なぜなら「生きている」ことと「生かされている」ことは違うからです。
ちなみに羽生選手は公式サイトのメッセージを、こう結んでいます。
<世界最高峰のチームと、そして、皆さんと一緒に、最上級の体験をしていただけるよう、心を込めて、魂を込めて、全身全霊で滑り、届けていきます>
二宮清純