2025年6月16日(月)更新
「不世出」羽生結弦の進化支える
過酷ワニトレは「未来への投資」

5月5日にCSテレ朝チャンネル2で放送された「羽生結弦 Echoes of Life ~全プログラム&舞台裏SP」において、興味深いシーンがありました。ウォーミングアップで、羽生選手がワニのような動きをしていたのです。
アニマルフロー
これは「アリゲーターウォーク」と呼ばれるトレーニング法で、アニマルフローの一種とされています。ちなみにアニマルフローとは、動物の動きを模したトレーニングで、人間の身体の奥底に眠る動きを引き出すことを目的としています。
羽生選手は、先の番組中、元プロテニスプレーヤー松岡修造さんとの対談で、こう語りました。
「最先端のトレーニングを重ねている競技の論文や方法を見て、それがフィギュアにどう繋がるのかってことを常に考えながらトレーニングしています」
ところで、「アリゲーターウォーク」で得られる効果は①上半身と下半身の連動性向上、②肩甲骨の可動域の広がりと柔軟性向上、③股関節の可動域の広がりと柔軟性向上――の3つだと言われています。いずれもフィギュアスケーターにとっては重要なものです。
以前、小欄で“白鳥の水かき”について書いたことがあります。水面を優雅に滑っているように見える白鳥も、水面下では、懸命に足を掻いている。すなわち成功している人間も、白鳥と同様に、皆人知れぬ努力をしているというたとえ話です。
驚いたのは、「アリゲーターウォーク」で見せた羽生選手の動きの速さ、しなやかさ、滑らかさです。足の運び、手の動かし方が、それこそワニそっくりなのです。
参考までに述べれば、ワニは後ろ足と前足を左右互い違いに出して進みます。左の後ろ足を地面に着けた直後、右の前足を地面に置きます。この要領で、4本の足を順番に動かします。もちろん足だけではありません。頭と尻尾を左右逆に振り、背骨も使って前に進むのです。
羽生選手はワニが持つしなやかさと滑らかさを見事に模倣していました。
「心・技・体」の「体」
実はこの「アリゲーターウォーク」、以前から多くのアスリートが実践してきました。そのひとりが2012年ロンドン夏季五輪銅メダリスト(女子100m背泳ぎ、女子400mメドレーリレー)の寺川綾さんです。
寺川さんが、北島康介さんらを育てたことで知られる名伯楽・平井伯昌さんに“弟子入り”したのは、08年北京夏季五輪に落選した直後のことです。
弟子入りを志願する寺川さんに対する平井さんの返事はつれないものでした。
「練習がきつくて、ついて来られないと思うよ」
平井さんが最初に命じたトレーニングがプールサイドでの「アリゲーターウォーク」でした。
水の中ではなく水の外でのトレーニングは、寺川さんにとって刺激的なものでした。最初は体をどう動かしていいかわからず、ぎこちなかった寺川さんですが、徐々に様になっていきました。
2011年8月のインタビューで、寺川さんはこう語りました。
「ワニ歩きは股関節の動きをよくすること、肩甲骨の可動域を広げることが目的。手で水を掻くのですが、これが前より上手になりました。練習でのタイムもどんどん上がってきた。徐々にトレーニングの手応えを掴んでいきました」
この1年後、寺川さんはロンドン五輪に出場し、表彰台に立ったのです。
羽生選手に話を戻しましょう。彼は、Echoes千葉公演千秋楽(2025年2月9日)後に、こう語りました。
「自分の特長であるしなやかさ、美しさの磨き方を、(1月の)広島公演の直前ぐらいからやり始めたんです。それが、今回、やっとまとまった感覚があります。これから、またどんどん変わっていける、という感触と実感があります」
相撲の世界に「心・技・体」という言葉があります。これは、あらゆる競技に通じます。「心」も「技」も大事ですが、「体」の充実なくしては、全て絵に描いたモチということでしょう。羽生結弦選手が不世出のアスリートであることを忘れてはなりません。

二宮清純