2025年6月25日(水)更新
さる6月3日に89歳で逝去した“ミスタージャイアンツ”こと長嶋茂雄さんは、ロサンゼルス・ドジャースのことをロサンゼルス・ダジャースと呼んでいました。余程、愛着があったのでしょう。ドジャースは自らを勧誘してくれた球団でもありました。
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長嶋さんが亡くなった翌日、テレビ番組のインタビューでドジャースのピーター・オマリー元オーナーが、「ミスター・ナガシマは素晴らしい選手だった。実際にドジャースに招く計画があったんだ」と語っていました。
生前のインタビューで、私も「ドジャースから誘われたことがあった」という話を聞いています。
「僕としては行きたかった。いや行くつもりだったんですけど、球団が許してくれなくてね。プロ野球を取り巻く状況を考えれば、あの時代は仕方なかったかもしれませんね」
しかし、ドジャースから正式に誘われたのがいつだったか、については聞きそびれてしまいました。誘われたといっても、多少は社交辞令的なものもあったのではないか、と勝手に想像していました。
しかし、長嶋さんが著した『ネバーギブアップ』(集英社)に、その時期がはっきり明記されていました。
立教大学で当時の東京六大学野球のホームラン記録(8本)を塗り替え、読売ジャイアンツと正式契約を結んだのは1957年12月のことです。後に代名詞となる背番号「3」は、前年まで千葉茂さんが付けていたものでした。
デビュー戦は翌58年4月5日。後楽園球場での開幕ゲームで、後に400勝を達成する国鉄スワローズのサウスポー金田正一さんから、4打席4三振を喫したのは、今も語り草です。
このシーズン、長嶋さんはホームラン(29本)と打点(92)の2冠王に輝きました。打率も3割5厘で2位。ルーキーながら、3冠王に、あと一歩のところまで迫ったのです。
シーズンオフにセントルイス・カージナルスが日米野球のため来日しました。来日した選手の中には、後に南海ホークスでプレー、その後はコーチ・監督(南海-広島-阪神-南海)として、日本野球の近代化に貢献したドン・ブラッシングゲーム(ブレイザー)さんもいました。
チーム最大のスターは、カージナルス一筋の現役生活を送ったスタン・ミュージアルさん。通算3630安打はMLB歴代4位です。この年の5月に史上8人目となる3000安打を達成していました。
ミュージアルさんとの思い出を、長嶋さんはこう述べています。
<私は、自分が目標にした人たちの前で、もてる力のすべてを発揮しようと打ち、走り、球にくらいついていった。この時カージナルスのフロントには、今は引退(※まだ現役、筆者注)した大打者スタン・ミュージアルがいて、わざわざ私のところまできて、「ナイスプレー」と賞めてくれた。私は嬉しさで、顔を真っ赤にしたことを覚えている>(同前)
その直後にドジャースのオマリー会長から<私のトレードについての申し込みがきた>というのです。
トレードの条件として、先方から<ドジャースのどの選手を指名してもよい>(同前)と大胆な提案があったそうですが、巨人がおいそれと、ゴールデンルーキーを手放すはずがありません。この話は立ち消えとなりました。
しかし、これで終わったわけではありません。
1961年、巨人はドジャースのキャンプ地・フロリダ州ベロビーチで春季キャンプを張りました。そこでドジャースのスカウトをしていたアル・キャンパニスさんから<「Mrナガシマ、俺の養子になれ。そしてドジャースに来い」>(同前)と誘われたそうです。養子とは手が込んでいます。さすがは『ドジャースの戦法』を著した戦略家だけのことはあります。
しかし、長嶋さんは首をタテには振りませんでした。自著には、こう書いています。
<当時、自分が球界に占めていた位置を考えれば、自分の気持ちだけで行動をとるわけにはいかなかったのである>(同前)
今から64年も前の話です。深い感慨を覚えずにはいられません。
二宮清純
1960年、愛媛県生まれ。
スポーツ紙や流通紙の記者を経てフリーのスポーツジャーナリストとして独立。オリンピック・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。明治大学大学院博士前期課程修了。広島大学特別招聘教授。大正大学地域構想研究所客員教授。「スポーツ名勝負物語」「勝者の思考法」など著書多数。