2022年6月29日(水)更新 [臨時号]
T・J・シンの反則は“コロンブスの卵”。
凶悪レスラーとジェントルマンを往復
「コロンブスの卵」という言葉があります。ある日、新大陸を「発見」したイタリア人のクリストファー・コロンブスはスペインの貴族たちのパーティーに招待されました。
その席で、コロンブスは「あなたでなくても、いずれスペインの優秀な冒険家が新大陸を発見したでしょう」と嫌味を言われます。
パイプ椅子の使い方
さてコロンブスはどうしたか。「では卵を立ててみてください」と語りかけます。丸い卵をテーブルに立てるのは容易ではありません。あれこれ思案している貴族たちに向かって、コロンブスは卵の尻の部分を潰し、その部分を底にして見事、卵を立てかけてみせたのです。
「誰かがやったあとなら、何とでも言える。最初にやってみせることが重要なのだ」
コロンブスは、そう言いたいに違いないと貴族たちは理解し、急に無口になったといいます。これが「コロンブスの卵」という言葉の由来です。
同じことを“インドの猛虎”タイガー・ジェット・シンの反則攻撃に見ることができます。シンと言えばターバンを頭に巻き、サーベルをくわえながら入場、リング内外で悪事の限りを尽くした日本プロレス史を代表するヒールですが、凶悪レスラーとしての彼の真骨頂は場外でのパイプ椅子の使い方にありました。
シンの初来日は1973年5月、新日本プロレスの「ゴールデン・ファイト・シリーズ」でした。同年11月にはアントニオ猪木と倍賞美津子夫人を路上で襲う、いわゆる「新宿伊勢丹前襲撃事件」を引き起こし、新日本プロレスのトップヒールの座を不動のものとします。
シンの前にも、場外でパイプ椅子を振り回す悪役レスラーはたくさんいました。シートの部分でバカンと脳天を一撃し、その部分が吹っ飛んでいくシーンをよく目にしました。
ところがシンは、シートの部分を使いません。椅子をタテに持ち、パイプの部分で相手の首や喉元を突くのです。バカンという打撃音こそありませんが、こちらの方がはるかに悪質で、より痛みが伝わってきました。
乱闘時の“計算”
それ以降、ほとんどのヒールがシンを真似してパイプの部分で相手の首や喉元を突くようになったのですが、椅子の使い方にシンのヒールとしてのセンスの良さが凝縮されていたように思われました。
凶暴性を売り物にしていたシンは、観客にもよく手を出しました。当時、観客席には、その筋とおぼしき方が多く、後々トラブルにならなければいいが、と心配することもしばしばでした。
しかし幸いにして、大きなトラブルに発展することはなかったようです。その理由を教えてくれたのは「週刊ゴング」の元編集長だった小佐野景浩さんです。
「実はシン、乱闘の際にも、お客さんの靴だけはチェックしていました。エメラル製かどうか。それで、“その筋”かどうかを確認していたんです」
シンのプロレスIQの高さは有名でしたが、そこまで計算して乱闘を演じていたとは……。異国でトップヒールとなり、長きに渡ってその座を守り続けるには、派手なパフォーマンスとともに用心深さも必要だったということでしょう。
ある意味、24時間、凶悪レスラーを演じていたシンですが、ジェントルマンとしての素顔をのぞかせたのは、ハル薗田と夫人が、新婚旅行を兼ねて南アフリカ遠征に発ち、その途上のモーリシャス沖で乗っていた飛行機が墜落した時のことです。南アフリカでのプロモーターがインド系のシンでした。
NHKのインタビューにスーツ姿で現れたシンは流暢な英語で「ソノダは素晴らしい男だった」と語り始めたのです。聞けば南アフリカにはインド系が多く、シンはインド系社会の名士でもあったというのです。日本が東日本大震災に見舞われた時には、被災地の児童に向け、シンから多額の寄付金が送られてきました。
二宮清純