写真:二宮清純

二宮清純コラムリングサイドの記憶

毎月第2月曜更新

2023年7月10日(月)更新

ミスター珍、“地下プロレス”で急所蹴り。
力道山喜ばせた掟破りの悪党ファイト。

 数多(あまた)ある反則技の中でも卑怯さで急所攻撃に勝るものはありません。この反則技が認められ、晴れて力道山が主宰する日本プロレス入りを果たしたのが、“小悪党”系キャラで活躍したミスター珍さんです。

「本物の強さを要求」

 私が珍さんの唯一の著書である『糖尿地獄からの生還』(ザ・マサダ)をプロデュースしたのは、今から29年前のことです。

 その頃、珍さんは週に2回、4時間ずつ病院で人工透析を受けていました。長く患った糖尿病の影響で左目は視力を失い、身体障がい者の認定も受けていました。

 壮絶な闘病生活をまとめるにあたり、珍さんの体調がいい日を見計らってインタビューを重ねました。

 身長168センチと小柄で、格闘家としても大した実績のない珍さんが、なぜ力道山に気に入られ、日本プロレス入りを認められたのか。私はそのことが不思議でなりませんでした。

 珍さんは“満鉄の虎”と謳われた山口利夫が主宰していた「山口道場」の出身です。山口道場は1954年から57年にかけて、大阪を拠点に活動していた「全日本プロレス協会」に端を発します。ところが経営が悪化し、その後は山口道場として、山口の故郷である静岡県三島市に本拠を移し、細々と活動を続けていました。

 数あるプロレス団体の中で、隆盛を極めていたのが力道山率いる日本プロレスでした。

 珍さんの力道山評は、こういうものでした。

「リキさんは、プロレスラーにショー的な要素だけではなく、本物の強さを要求する人でした」

 56年、東京・人形町の日本プロレスセンターの地下道場で「全日本プロレスリング体重別選手権」が開催されました。珍さんによると、マスコミを一切シャットアウトしてのセメントマッチ、要するに“地下プロレス”だったそうです。

「オレが面倒見てやる」

 珍さんは中国人風の陳大元というリングネームでライトヘビー級にエントリーしました。レフェリーは力道山が務めたそうです。

 1回戦の相手は「アジアプロレス協会」の白頭山。リングネームからもわかるように朝鮮半島出身の選手です。

<とにかく白頭山の馬鹿力には驚きました。組んだだけで巨大な岩石に押しつぶされているような感覚になるのです。私は当時身長168センチながら、体重は95キロまで増え、筋肉がパンパンに張っていました。しかし、私が人より三倍力が強いと言っても白頭山の比ではありません>(ミスター珍『糖尿地獄からの生還』ザ・マサダ)

 正攻法では勝てないと判断した珍さん、白頭山のスキを見て急所蹴りを見舞いました。しかし、これも結果的には“焼け石に水”です。実力に劣る珍さんはあえなくフォール負けを喫しました。

 試合後、「ありがとうございました」と一礼した珍さんに、力道山は思いもかけぬ言葉を発しました。

「陳大元って言ったか?おもしろいものを見せてもらったよ。力で相手に負けると思ったら、何をやればいいか考えることは大事なことだ。反則もいい、負けっぷりもいい、堂々とキン蹴りをするなんていい度胸してるじゃないか。オレは気に入ったぜ」

 恐縮しきりの珍さんの肩に手をやり、力道山はさらに続けました。

「オマエ、オレが面倒見てやるからいつでも東京に来い!」

 翌年3月、珍さんは山口道場の解散を機に上京し、念願の日本プロレス入りを果たします。陳大元からミスター珍へ――。リングネームの名付け親は誰あろう力道山でした。

二宮清純

二宮清純 スポーツジャーナリスト

1960年、愛媛県生まれ。
スポーツ紙や流通紙の記者を経てフリーのスポーツジャーナリストとして独立。オリンピック・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。明治大学大学院博士前期課程修了。広島大学特別招聘教授。大正大学地域構想研究所客員教授。「スポーツ名勝負物語」「勝者の思考法」など著書多数。

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