2024年3月11日(月)更新
「消えた四天王」マンモス鈴木。
凱旋試合で猪木と凄絶“殴り合い”
日本プロレス時代、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎とともに“若手四天王”と呼ばれたレスラーがいます。マンモス鈴木(本名・鈴木幸雄)です。身長193センチ、体重120キロと恵まれた体躯の持ち主ながら大成しませんでした。
力道山が激怒
馬場、芳の里とともに武者修行のために渡米していたマンモスが帰国し、凱旋試合の相手として選ばれたのが2歳年下の猪木でした。1962年6月16日、広島県の福山市で“運命の一戦”は行われたのです。
なぜ、“運命の一戦”だったのか。この試合で評価を落としたマンモスは力道山の怒りを買い、“使えないヤツ”とレッテルを貼られてしまったからです。
果たして、どんな内容だったのでしょう。猪木の自著『猪木寛至自伝』(新潮社)から引きます。
<互いの意地がぶつかり合い、結局引き分けになってしまった。その途端、力道山が棒を持ってリングに駆け込んで来た。頭から湯気が出るほど怒っていて、恐ろしい形相で私たちを睨みつけ、レフェリーに「あと十分延長しろ!」と怒鳴った。
それで延長戦になった。マンモスもここで勝たないと力道山の雷が落ちるから、物凄い力で殴ってくる。こっちも意地で殴り返す。プロレスというよりぶん殴り合いである。殴るのはマンモスの方が上手だったから、私は何とか懐に入って倒す。こうなるとなかなか勝負は決まらないものだ。
惨憺たる試合になって、決着はまたもつかなかった。
腫れあがった顔でリングを降りると、今度は力道山に滅茶苦茶に殴られた。力道山としては金をかけてアメリカへ遠征させたマンモスを、これから売り出すために組んだ試合だ。それがいいところを見せられず、喧嘩試合になってしまって、しかも勝てなかったのだから、腹が立ったのだろう。私にはとんだ災難だった。>
レフェリー転身
マンモスの凱旋試合ながら、猪木が一歩も引かなかったのには理由がありました。福山は姉の京(みやこ)さんの結婚相手の出身地で、リング上で花束をもらうなど、大きな期待を寄せられていたからです。
その意味ではマンモスに運がなかったというしかありません。猪木も書いているように、ぶん殴り合いではパワーで勝るマンモスに一日の長があったとはいえ、グラウンドの戦いに持ち込めば、勝負は猪木のものです。大相撲出身のマンモスは、それほど寝技が得意ではありませんでした。
結局、これといった実績を残せないまま1963年、マンモスは日本プロレスを引退します。その間、失踪事件を何度も起こすなど、生活面でも問題があったと言われています。
その後、東京プロレスに参加しますが、ここでもパッとしませんでした。3つ目の団体となる国際プロレスではレフェリーとして居場所を得ました。
しかし、レフェリーは機転が利き、素早い動きができる人でなくては務まりません。さらに言えば、193センチのマンモスがリングに上がると、裁く対象のレスラーが小さく見えてしまうのです。マンモスの大きな背中にレスラーが隠れてしまって、試合が見づらいこともありました。
余談ですが、ボクシングの世界にリチャード・スティールというレフェリーがいました。2014年にボクシング殿堂入りを果たした名レフェリーですが、彼がリングに立つと軽量級のボクサーが、より小さく見えました。なぜなら彼は190センチ近い長身だったからです。軽量級のタイトルマッチには、小柄なレフェリーを充てるべきではないか。そう思ったものです。
話をマンモスに戻しましょう。1991年5月、内臓疾患により50歳の若さで世を去りました。この御仁が大成していれば日本プロレスの歴史は変わっていたかもしれません。
二宮清純