2024年8月12日(月)更新
一世を風靡した G小鹿と大熊元司
“極道コンビ”隠されたミッション
現役最高齢プロレスラーのグレート小鹿(本名・小鹿信也)さん(82歳)は、今年5月で、デビュー61年を迎えました。心臓にはペースメーカーが入り、ガンの転移で抗ガン剤治療を受けている身ですが、“生涯現役”を続ける腹づもりのようです。
ソップ型とアンコ型
小鹿さんといえば、私たちの世代にとっては大熊元司との“極道コンビ”がすぐに思い浮かびます。
力道山が創設した日本プロレスには上田馬之助(本名・上田裕司)、林牛之助(本名・林幸一)、高崎山猿吉(本名・北沢幹之)など、動物の名をリングネームにするレスラーが少なからずいました。
てっきり小鹿さんと大熊も“偽名”かと思っていましたが、後になって本名だと知り、驚いたものです。
それにしても「鹿」と「熊」なんて、偶然にしてはよくできています。
小鹿さんと大熊が正式にコンビを組んだのは1967年の渡米時で、最初はライジング・サンズと名乗っていました。
その後、日本プロレスが崩壊し、小鹿さんはジャイアント馬場が旗揚げした全日本プロレスに入団します。一足早く全日本入りしていた大熊と再びタッグを組むようになり、アジアタッグ王座を4回獲得しました。
これは山本小鉄と星野勘太郎の“ヤマハブラザーズ”についても言えることですが、1+1が2ではなく、3にも4にもなるのが、名タッグチームの条件です。
2人はともに大相撲の出身です。身長185センチ、体重115キロの小鹿さんが“ソップ型”なら、身長179センチ、体重130キロの大熊は“アンコ型”。レスリングスタイルも、小鹿さんが殴る蹴る、かきむしるのラフファイト専門なら、大熊は体重を乗せての頭突き、ボディプレスなどパワーファイトを得意にしていました。体型もスタイルも真逆だったことが、コンビの妙だったと言えるかもしれません。
相棒の早過ぎる死
私が小鹿さんにインタビューしたのは、今から3年前のことです。“極道コンビ”の思い出について問うと、こう答えました。
「アメリカ遠征は出世への登龍門だったので、熊さんと2人でアメリカ行きが決まったときは本当にうれしかった。当時のレスラーは、初渡米から帰国するまで長くても2年半でした。だから最低でも3年間は帰らないと覚悟を決めていました」
――アメリカでのヒールとなると、まだ反日感情の強い時代だから大変だったでしょう?
「それは大変でした。ただ、なめられたら終わりだから、一発殴られたら三発殴り返そうと決めていました。おかげで(67年)9月にロサンゼルスに移って、10月にはメインを張れるようになり、12月にはテネシー州のタッグ王座も獲得しました。ギャラは大幅にアップしたものの、風当たりも強くなって、町を歩けば石や生卵を投げつけられ、車のタイヤを全部パンクさせられたこともありましたよ」
小鹿さんによると、日本での“極道コンビ”には、別のミッションもあったそうです。
<熊さんとのコンビで極道コンビを名乗ると、俺たちはアジアタッグの代名詞的存在となった。当時、任されていた重要な「仕事」がある。まだ少なかった他団体との対抗戦、あるいは「初物」の外国人レスラーの力量を測る役目だ。番人であり切り込み隊長。プロレスに携わった人間なら理解できるだろうが、誰にでもできる役割ではない>(『極道の遺言』グレート小鹿・東スポnote)
かえすがえすも残念だったのは、相棒の早すぎる死です。大熊は1992年12月27日、腎不全のため世を去りました。まだ51歳でした。
二宮清純