2025年2月10日(月)更新
“世紀のイロモノ”G・アントニオ
天才興行師・力道山の計算と誤算

今ならさしずめ“イロモノ”という評価になるのでしょうか。“密林男”の異名で一世を風靡したグレート・アントニオが、日本初上陸を果たしたのは今から64年も前の1961年6月のことです。第3回ワールド大リーグ戦にカナダ代表として参加しました。
神宮前の怪力ショー
クロアチア生まれのアントニオは、長じてカナダに移住し、サーカスやカーニバルの出演で禄を食んでいたと言われています。
その後、プロレスラーに転じ、怪力を売り物にカナダや米国のミネアポリス、そしてニューヨークのリングで暴れ回ります。
身長は190センチ前後、体重は200キロ前後。当時としては大型のパワーファイターでした。
そのアントニオを日本に連れてきたのが、日系のヒールで、力道山率いる日本プロレスの外国人ブッカーの役目も荷っていたグレート東郷です。
1959年、当時やや下火となっていたプロレス人気を呼び戻すため、力道山は第1回ワールド大リーグ戦を開催します。興行の成功に気をよくした力道山は、“まだ見ぬ強豪”の発掘と斡旋を東郷に求めます。なにしろ大会の名称は「ワールド大リーグ」です。力道山は「世界には、こんなスゴイやつがいるんだ!」ということを世間にアピールしたかったのではないでしょうか。興行主としての力道山の才覚は抜きん出たものがありました。
さてアントニオの並外れた怪力を、どのような方法を用いて世間に伝えるか。東郷たちが考えついたのが神宮外苑絵画館前で、1台に児童50人を乗せた8トンのバス4台を引っ張らせることでした。
当時の新聞報道によると、約1万人の見物客が集まったようです。顔中ひげもじゃの“密林男”は、先頭車両のバンパーに縄をかけ、それをつないだ鎖を肩にかけて、バスを引きながら、のっしのっしと前進します。写真を見ると、さながらヒマラヤの雪男のようです。
控室のリンチ騒動
ご愛敬だったのは、バスは三菱ふそう製で、車体の正面には日本プロレスのスポンサーだった三菱電気(三菱グループ)のスリーダイヤのロゴが掲げられていたことです。三菱サイドは相当な宣伝効果があると見積もったのでしょう。
こうして日本でもすっかり有名になった“密林男”ですが、肝心のレスリングの方はさっぱりでした。レスラーとしての基礎が全くできていなかったようです。星取表を見ると1戦1勝。遠藤幸吉に勝っただけで、途中帰国しています。
どういう契約だったのか知りませんが、絵画館前の大デモンストレーションで、一躍人気者になったアントニオは控室でもメインイベンターのように振る舞い、これに腹を立てた実力派のカール・ゴッチやビル・ミラーからリンチを受け、逃げ帰ったと言われています。
不思議なのは、もしアントニオが興行的になくてはならない存在なら、力道山がゴッチやミラーの行動を許したりはしないでしょう。貴重な“商品”を壊すことは、プロレスの世界では歴とした営業妨害にあたり、ご法度だからです。にもかかわらず力道山がゴッチやミラーを不問に付したのは、アントニオの振る舞いがあまりにもひどかったことに加え、リングでは使い物にならない、と判断したからではないでしょうか。そう考えるとアントニオの第3回ワールド大リーグ戦での役回りは、絵画館前の“バス引き”で終わっていたのです。果たして当人は、それを知っていたのでしょうか。

二宮清純