泉秀樹の歴史を歩く

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奥州の王・伊達政宗【2018年6月】

ダミー

伊達政宗の甲冑(仙台市博物館蔵)

慶長16年(1611)10月28日、盛岡や仙台の沿岸部を津波が襲った。慶長三陸津波である。伊達政宗の領内で1783人、南部津軽領で3,000人死亡したといわれる。政宗は、このマグニチュード8.1の地震・津波の被害と果敢に戦った。44歳の政宗は津波が浸水した場所を開発し、製塩業などに取り組み、北上川の流れをつけ変え、運河を掘削し、新田開発や貿易で領国を復興させようとした。そしてそれからちょうど400年後の平成23年(2011)3月11日、同じ場所を大震災が襲った。その時からさらに7年を経た、今、泉秀樹は、政宗の影を追って仙台を訪れた。戦国武将、奥州の王、伊達政宗とはどのような人間だったのか?
遠い昔と今を結ぶ線を辿る。作家・泉秀樹が歴史の現場を取材し独自の視線で人と事件をプロファイルする!

登場人物

第1章 政宗の生い立ち

伊達政宗甲冑倚像(瑞巌寺蔵)

伊達政宗甲冑倚像(瑞巌寺蔵)

政宗は、7歳のとき疱瘡を患って右目を失明した。政宗は隻眼であることに苦しみながら「独眼竜」の異名をとって乱世を生きてゆく。「奥州の王」と畏敬される存在になった。父・輝宗は子どもの頃から政宗の資質を見抜いていた。政宗が名門伊達家を父の輝宗から相続したのは天正12年(1584)である。わずか18歳の時であった。すでに、信長は倒れ、秀吉が天下統一に向かってひた走っていた。しかし都から遠く離れた奥州の政宗の周囲では、いまだに諸勢力が食うか食われるかの戦を繰り返していた。そんな中、天正13年10月政宗を悲劇が襲った。二本松城の宿敵であった畠山義継が父・輝宗との和平の会談後、輝宗を拉致したのである。急を聞いた政宗は義継を追撃して阿武隈河畔・高田原に追い詰め、結局は義継もろとも父・輝宗までも射殺することになってしまった。

第2章 領国経営者としての政宗

「木曳掘(こびきぼり)」阿武隈川の河口

「木曳掘(こびきぼり)」阿武隈川の河口

関ヶ原の戦いから2ヶ月後の慶長5年(1600)11月、政宗は家康からそれまで居城であった岩出山城を出て仙台に築城する許可をもらった。政宗は3年後の慶長8年(1603)8月にはほぼ仙台城(青葉城)を完成させた。政宗はそこで必要な木材を運搬するため、運河の開削を指示している。運河は海岸線沿いにある干潟や沼地、湿地などを掘り進められ、数年で長さ15キロ、幅四間~七間(約7メートル~13メートル)、水深は潮の干潮によって約六尺(約2メートル)から十余尺(約3.3メートル)の「木曳掘」が完成した。これは阿武隈川の河口・荒浜から名取川河口・閖上・名取川に合流する広瀬川をさかのぼって仙台までを「水の高速道路」で結びつけたということで、この木曳掘が仙台城の築城と城下町建設にどれほど役立ったかわからない。

第3章 政宗の野望と教養

復元された「サン・ファン・バウティスタ号」(宮城県石巻市)

復元された「サン・ファン・バウティスタ号」(宮城県石巻市)

政宗は更に大きなプロジェクトを実行にうつした。イスパニア(スペイン)国王の大使セバスチャン・ビスカイノとフランシスコ会のルイス・ソテロ神父を利用して大船を建造したのだ。この船を造るため気仙沼、磐井、江刺諸郡から材木を伐り出し、日本人棟梁とイスパニア人航海士・技術者の共同プロジェクトとして長さ十八間(32・4メートル)、高さ十四間強(25・2メートル)という巨大な洋船が建造された。政宗はこの巨船による貿易を企んでいた。家康も、幕府に大きな利益がもたらされる、と説得する政宗の行動を黙認せざるをえなかった。そして、慶長18年(1614)には支倉常長を遣欧大使としてメキシコからイスパニア、ローマへと派遣している。それには、ある大きな野望を叶えるための政宗なりの計算があったと泉は言う。

第4章 老いと晩年

瑞鳳殿(宮城県仙台市)

政宗の御霊屋である瑞鳳殿(宮城県仙台市)

政宗は、晩年どのような生活をおくっていたのだろうか。
政宗は夜寝る前に、明日は明け六つに起こすよう指示をした。そして朝6時ころ起きると、ようやく明け六つになったか、ずいぶん長く感じたと言った。そして朝起きるとまずタバコを吸い髪を整え、午後2時くらいまで政務に携わった。丁度同じころ夕食の支度が始まり、今日は何を食べたいというような料理の指示をするなどして、あらかじめ申しつけてあった相伴衆などと一緒に食事をした。そして翌日は何をするのか指示したり、政治的な問題を裁決した。その後、床に入るというような生活だった。またタカ狩りをよく催した。これは軍事演習であるため、武将として当然の仕事の様なものだった。それから市内の覚範寺や東昌寺のお坊さんと一緒に詩文の応酬を行った。政宗は晩年、文化程度の高い生活をおくっていた。

地図

  • 元亀元年(1570年)ごろの勢力分布図(クリックすると拡大)元亀元年(1570年)ごろの勢力分布図(クリックすると拡大)
  • 元亀元年(1570年)ごろの勢力分布図元亀元年(1570年)ごろの勢力分布図

登場人物プロフィール

北条氏政

伊達政宗(だてまさむね)

伊達政宗は、永禄10年(1567)8月3日、米沢城で生まれた。父は伊達家十六代・輝宗、母は山形城主・最上義守の娘・義姫(保春院)で、東奥の名門である。政宗はまさに生まれながらの「王」であった。

北条氏直

川村孫兵衛(かわむらまごべえ)

孫兵衛はもともと毛利輝元に仕えており、関ヶ原の合戦で負けて減封されたのを機に浪人しているところを政宗に招かれたようである。阿武隈川河口の荒浜から名取川河口の閖上まで運河の開削を指揮した。

豊臣秀吉

支倉常長(はせくらつねなが)

朝鮮出兵や葛西大崎の一揆の鎮圧で活躍した武士。慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、アジア人として唯一無二のローマ貴族、フランシスコ派カトリック教徒となった。

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