脱皮をくりかえし、貴重な生糸を吐き続ける蚕。
節操などかなぐり捨てて、時がくれば殻を脱ぐ。
日本の資本主義経済を確立した
「お蚕主義者」はどんな風に生きたのか。
歴史作家「泉秀樹」が渋沢栄一を独自の視線で解析する。
渋沢栄一は天保11年(1840)2月13日に生まれた。
出身地は、武蔵国・榛沢郡血洗島村、現在の埼玉県深谷市である。
この血洗島村は、質のいい田圃がなく、
養蚕と製糸、藍玉作りで生計を立てていた。
折から藍玉の製造販売が大きく伸びている時期だった。
渋沢家は金貸しと質屋もやっており、
気がつけば村では二番目の資産家に成長していた。
慶応2年(1866)一橋慶喜は十五代将軍に就任し、
栄一は「陸軍奉行支配調役」に任じられた。
一橋家の家臣から、かつて倒すべきだと考えていた幕府の役人、つまり「幕臣」になったのだ。
翌年フランス国のパリで開かれる万国博覧会に
将軍・慶喜の弟・昭武を名代とする幕府使節団を派遣することになったが、
栄一も同行するように、という命令だった。
「大政奉還」の後、帰国した栄一は早速静岡へ行き、
慶喜が謹慎していた宝台院(静岡市葵区常磐町)を訪ねた。
慶喜に面会した栄一は、フランスに留学した昭武のことを報告したり、
ヨーロッパ巡遊の話をしたりして退去したが、
栄一が旅館に滞在していると、静岡藩庁から出頭命令が来た。
静岡藩の「勘定組頭」に任ずるという辞令書を渡されたのだった。
それまで何度も何度も蚕のように「脱皮」を繰り返し、
そのたびに新しい自分に生まれ変わり、
日本のために大きな貢献をした栄一は、
積極的に民間企業をつくり育てて経済的な利益を生み出して
国民一人一人の生活を豊かにし、幸福にしてゆこう、と考えた。
それこそが国家社会に利益を還元できる最良の方法なのではないか、と。
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