2026年2月5日(木)更新

小須田潤太、パラスノボ2冠を目指す
「障害を負って得られた大きなもの」

取材日:1月13日(火)

 スポーツジャーナリスト二宮清純が、ミラノ・コルティナ冬季パラリンピック日本代表選手を直撃!テーマは「挑戦」です。今回は自身2度目の冬季パラリンピックを控えるパラスノーボード日本代表の小須田潤太選手がゲストです。

山本篤の背中を追って

――2012年3月、21歳の時に交通事故に遭われたそうですね。

小須田潤太: 大学を2年で中退し、その後に入社した引っ越し屋での勤務中でした。ちょうど繁忙期で、あまり休みが取れず、居眠り運転をしてしまった。路側帯に乗り上げ、そのまま道路標識と車体に右足が挟まり、その場で足を切断されたような状態に陥りました。

――気が付いた時にはもう右足が形をなしていなかった、と?

小須田: はい。事故直後、膝はまだあったのですが、膝下の骨が剥き出しになっていました。救急車で運ばれる前、トラックの中で、“もうここで死ぬのかな”と思って1度、目を閉じました。でもすぐに“絶対俺、ここでは死なない!”と思ったのも覚えています。結局、救急車で病院に運ばれ、麻酔を打たれるまでは、ずっと意識がありました。

――ショックが大きかったのでは?

小須田: いや、それが全然、ダメージを食らわなかったんです。

――すごいメンタルですね。

小須田: 当時の自分が、何も目標を持たずに生きていたのが、逆に良かったのかもしれません。引っ越しの仕事は好きでしたが、そこで何かを成し遂げようというビジョンがあったわけではありませんでしたから。

――パラスポーツに対する興味は?

小須田: 全くなかったですね。高校1年の時にサッカーを辞めてから、スポーツもほとんどしてこなかった。事故に遭ってからの3年間、いろいろなパラスポーツを体験しましたが、“本気でスポーツをやろう”という気持ちにはなれなかったですね。

――陸上教室で、夏季パラリンピック2大会(08年北京大会、16年リオデジャネイロ大会)銀メダリストの山本篤さんと出会ったことが、パラスポーツを本格的に始めようと思ったきっかけだそうですね。

小須田: そうですね。オットーボックという義肢装具メーカーの主催で、義足のランニングクリニックが15年に開催されました。そこで講師を務めていた篤さんと出会った。クリニック自体、すごく楽しかったですし、篤さんが走る姿を見てすごくかっこいいと思った。それで自分も陸上をやってみたい、と。ただ競技用義足を買うのにすごくお金がかかるので、二の足を踏んでいました。

――いくらくらいするのでしょうか?

小須田: 大体80万円前後です。当時の自分には簡単に捻出できる額じゃなかった。それで陸上を始められずにいたら、クリニックから2カ月後に篤さんが連絡をくださったんです。それでもう一度、一緒に練習することになり、その時に篤さんが昔使っていた板バネを貸してくれた。それがきっかけでパラスポーツを本格的にスタートしました。

――そこからわずか5年で、東京パラリンピックに出場しました。

小須田: 東京大会が1年延期になったことが、自分には幸いしました。1年の延期がなかったら出られなかったと思います。昔から自分は本当に運が良い。スノーボードもド素人の状態で始めたにも関わらず、すぐに代表チームに呼んでもらえた。自分はタイミング、出会う人に恵まれて、ここまで来ることができたと思っています。

――陸上とスノーボードの“二刀流”になったのも、山本さんの影響だったとか。

小須田: 17年2月に篤さんがスノーボードの国内大会で優勝して、そのまま代表チームに入ったんです。その姿を見て、刺激を受けた。当時は篤さんと一緒に練習していたわけではなかったので、スノーボードに挑戦していることすら知らなかった。自分は陸上で篤さんの背中を追っていたので、突き放されたような気持ちになった。“これは俺もやるしかない”と思い、スノーボードに挑戦しました。

「足がなくなって良かった」

――今はスノーボード一本に絞っているそうですね。

小須田: 夏の東京と冬の北京を経験して、どちらも最高成績が7位だった。東京大会を終えた後、メダルを取りたいという思いが、すごく強くなった。自分が最短でメダルを取るには、北京の2年後のパリ夏季大会では正直厳しいと感じていた。4年後のミラノ・コルティナ冬季大会に焦点を当てた方がいいという判断から、スノーボード一本に絞りました。

――ということは今回のパラリンピックが勝負ということですね。

小須田: もちろんです。ひとつの集大成だと思っていますし、必ず結果を出したい。バンクドスラロームとスノーボードクロスの2冠を目指しています。

――これまでパラリンピックは夏冬合わせて、今回で3回目。ケガをするまで大きな目標はなかったとおっしゃっていましたが、ある意味、事故に遭ったことで、その後の人生はガラッと変わったんじゃないですか?

小須田: 自分はしょっちゅう言うのですが、「足がなくなって良かった」と。これをSNSにアップした際、「そんな強がんなくていいですよ」というコメントをいただきましたが、心の底からの本心です。障害を負ったことによって得られたものがたくさんある。今、こうやってスノーボードで稼げていることもそうですが、内面が大きく変わり、人間として成長できた。マイナスなことをプラスに転換できるようなマインドになったのは、事故に遭ったからだと思っています。

――今回の企画は「挑戦」がテーマです。小須田選手にとっての挑戦とは?

小須田: 自分ではずっと挑戦し続けているつもりです。今、やっていることだけを突き詰めていっても、成長には自ずと限界がある。どれだけ新しいことを自分の中に取り入れ、積み上げていけるか。とにかくいろいろなところに顔を出すようにして、自分にない知識を得るようにしています。日本代表の元木勇希コーチ以外にも、積極的に指導を受けに行きました。22年北京冬季五輪スノーボードクロス日本代表の高原宜希選手と一緒に合宿させてもらったり、国外のパラチームの練習にも参加しました。

――国外のパラチームとは?

小須田: アメリカとイタリアです。アメリカには自分と同じLL1クラス(膝より上の切断など比較的重度な下肢障害)で一番速い選手、イタリアにはパラスノーボードで一番速い選手がいます。2人の練習を見ていて気付いたのは、たくさん失敗していること。ところが試合で失敗する姿はほとんど見たことがない。練習では、自分の“限界値”を引き上げるために、挑み続けていると思うんです。その姿を見て、自分自身も、もっとやらなければいけないと痛感しました。常に何かにトライし続けないと、成長は止まってしまう、と……。

――ちなみに17年に宅地建物取引士(宅建)の資格を取得していますが、これも挑戦だったのでは?

小須田: そうですね。自分はそれまで、まともに勉強したことなかったので、その意味では挑戦でしたね。自分は勉強するのが嫌いだった。でも資格取得のために勉強するようになったことで、気付いたのが、嫌いなことでも、できるようになっていくと面白いということ。自分は足を切断したことで、できなくなったことがたくさんあります。それでも義足を履いて歩けるようになった時は、すごくうれしかった。足を失ったことで、できないことができるようになる喜びを知ることができた。宅建の勉強の時も、嫌いなことでも努力して、どんどんできるようになっていくことが、すごく楽しかったんです。

【インタビュー後記】

正直、ここまで言い切ることに驚きを覚えました。「足がなくなって良かった」。事故後の人生を好転させたのは、小須田選手の「挑戦心」だったのかもしれません。コルティナダンペッツォでの「集大成」となる滑りに、日本から声援を送りましょう。

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