2026年8月26日(水)更新
今では知らぬ者のない「トミー・ジョン手術」に名を刻むMLB通算288勝のトミー・ジョンさんが、さる8月16日(現地時間)、フロリダ州ダンイーデンの自宅で亡くなりました。83歳でした。
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MLBには、各リーグでその年最も活躍した新人選手におくられる「ジャッキー・ロビンソン賞」、各リーグでその年最も活躍した投手におくられる「サイ・ヤング賞」、各リーグで最もすぐれた打者におくられる「ハンク・アーロン賞」など、レジェンドたちを顕彰する賞が少なくありません。
しかし、術名にその名を刻むレジェンドは、後にも先にもトミー・ジョンさんだけです。
本題に入る前に、ジョンさんのプロフィールをご紹介しましょう。1943年生まれのジョンさんは63年にクリーブランド・インディアンスに入団し、65年にシカゴ・ホワイトソックスに移ります。7シーズンで82勝するなどローテーションの一角を担ったジョンさんは、72年に交換トレードでロサンゼルス・ドジャースへ。72年11勝、73年=16勝、74年もシーズン半ばで13勝をあげていましたが、7月17日のモントリオール・エクスポズ戦で利き腕の左ひじを負傷してしまいます。シンカーを投じた瞬間、「これまでの人生で味わったことのない痛み」を感じたそうです。
この時点で、ジョンさんは、まだ事の重大さに気が付いていませんでした。痛みをこらえてもう1球投げたところ、ボールはあらぬ方向に飛んでいきました。ジョンさんはそのままマウンドを降り、ダグアウトに駆け込みました。
投手生命の危機を救ったのがドジャースのチームドクターだったフランク・ジョーブ博士です。ジョーブさんは異色の経歴の持ち主です。1925年にノースカロライナ州で生まれたジョーブさんは成績優秀ながら大学には進まず、高校卒業後、軍隊に入り衛生兵として連合国軍のノルマンディー上陸作戦に従軍します。
戦場での働きぶりを評価されたジョーブさんは、ひとりの軍医から外科医になることを勧められます。裕福な家庭ではなかったため、ためらっていたジョーブさんの背中を押したのが第2次世界大戦中に成立した復員兵援護法でした。この中には教育恩典も含まれており、いわゆる奨学金でジョーブさんはカリフォルニア州のロマ・リンダ大学医学部に進み、学位を得ることができたのです。
ジョーブさんがジョンさんに施した手術は断裂したヒジのじん帯を、別の場所から取ってきた腱につけかえるというもので、正式には「内側側副じん帯再建手術」と呼ばれるものでした。今でこそポピュラーな術式ですが、当時としてはきわめて画期的かつ実験的で、実際、ジョンさんはジョーブさんから「やってみないとどうなるかわからない。成功の確率は1%ほどだ」と告げられたと言います。それでもジョンさんが手術を受け入れた背景には、「このまま野球人生を終えたくない」という危機感があったからだと思われます。「1%でも可能性があるのなら、何もしないよりはましだ」。あえて退路を断っての決断でした。
手術後、ジョンさんは1年間のブランクを経て76年4月に復帰します。この年は10勝、そして翌77年には自身初の20勝を記録するのです。79年にはFAでニューヨーク・ヤンキースに移籍、その後も数球団でプレーし、通算288勝をマークします。手術前までに124勝、手術後164勝。まさに不死鳥のような野球人生でした。
歴史にifは禁句ですが、もし負傷時のチームがドジャースでなければ、ジョンさんはジョーブさんのメスを受けることができず、野球人生にはピリオドが打たれていたかもしれません。ジョーブさんとの邂逅が、運命を変えたのです。

二宮清純
1960年、愛媛県生まれ。
スポーツ紙や流通紙の記者を経てフリーのスポーツジャーナリストとして独立。オリンピック・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。明治大学大学院博士後期課程修了・博士(学術)。広島大学特別招聘教授。大正大学地域構想研究所客員教授。「スポーツ名勝負物語」「勝者の思考法」など著書多数。