2022年10月10日(月)更新
【追悼】平和の戦士・アントニオ猪木<後>
日本人人質解放を実現した“猪木流交渉術”
(前編はこちら)
1990年9月18日、アントニオ猪木さんはパキスタンのジャーナリストとともにバグダットに入りました。
政府要人に会うことはできたものの、「最初はとげとげしかった」と猪木さんは語り、こう続けました。
「そこで私はあえて偉大なる格闘家であるジュネード・バグダーディの話を持ち出した。バグダーディは800年ほど前にイスラム社会で活躍した義侠心あふれる格闘家で、貧しい家の出の選手に対しては、わざと負けてやって賞金を獲らせてやったというんだ。
そのバグダーディを尊敬していると告げると、やにわにラマダン第一副首相(フセイン政権崩壊後に処刑)の顔色が変わった。“実は私たちはその子孫なんだ”と。そして、続けた。“実は私たちも日本人を尊敬していた。だから今は裏切られた気持ちが強いんだ”と……」
どんな相手であれ、まずはじっくりと話を聞き、そして懐に飛び込む。これが猪木さん流の外交哲学です。
猪木さんは「オレはバイ(1対1)の交渉に強いんだ」とも語っていました。長年、リングで1対1の勝負をしてきたから、「相手が駆け引きを使ってきても驚かない」のだそうです。
人質解放交渉の場で、大いに役立ったのがモハメド・アリと闘ったことによる知名度でした。イスラム社会の英雄であるアリとの一騎打ちにより、イラクにおいても猪木さんは一目置かれる存在でした。
さらに、もうひとつ。猪木さんはアリ戦の半年後の1976年12月12日、パキスタンのカラチでアクラム・ペールワンというパキスタンの国民的英雄と試合を行っていました。これも交渉の場では役に立ったというのです。
カラチの修羅場
なぜパキスタンまで行って試合を行うことになったのか。それについては、昔、猪木さんから直々に話を聞く機会がありました。
「アリ戦を一番高く評価してくれたのが、実はパキスタンの興行主だった。“ぜひ、我が国地で試合をやってくれ”と。
ところが、行ってみてはじめて事の重大さに気がついた。ルールなしの試合だというわけです。もちろん、こちらは負けるなんて思っていないけど、向こうは弟子だけで何万人もいて、そのうちの精鋭部隊の何十人かがリングを取り巻いている。それこそ勝ったら最後、殺されかねない雰囲気だった」
さて、猪木さんは、どうしたか。
「確か試合が始まって早い時間に、一度、腕を決めたんだ。体重を乗せてガシッとヒジを持ち上げたつもりだったんだけど、油で滑ったため完璧じゃなかった。ヤツは腕も足も取らさないため、体中に油を塗っていた。
しかし、2回目は完璧だった。もう絶対に逃げられない。ところが、ここでヤツは奥の手を出してきた。何とオレの左手首に噛みついてきたんだ。
こういう場合、無理に引き離そうとすると、逆に肉をえぐられてしまう。そこでグイッと手首を相手の口の中に押し込み、右手で眼を突いた。これで試合は終わりです」
イラクの要人たちは、この試合についても知っていたようです。
「そう、イスラム社会では強い者が尊敬されるんです」
猪木さんは、ここで絶妙の“変化球”を投じます。イラク政府に「平和の祭典」と銘打ったコンサートやプロレス興行を行うことを提案、この懐柔案が功を奏し、人質解放が実現するのです。
イラクでの日本人人質解放は、政治家アントニオ猪木にとって最初にして最大の仕事でした。
(了)
二宮清純