声優・速水奨
ロングインタビュー #1
初めて見た舞台演劇に衝撃を受け、お芝居の道へ。
劇団四季から声優コンテスト受賞まで、
声優・速水奨 原点の物語
2024年8月30日更新
HAYAMI
INTERVIEW
声優界きっての美しい低音ボイスで、色気と包容力に満ちたお兄様から絶対的な力を見せつける悪のカリスマ、またときにはその渋みを逆手にとったコミカルなキャラクターまで数多くの作品で名演を披露し、さらに『ヒプノシスマイク』ではシンジュク・ディビジョンのMCグループ「麻天狼」の神宮寺寂雷役としてラップを完璧に歌い上げ、ファンを魅了し続けている声優・速水奨さん。2013年には独立して、自身の声優事務所「Rush Stlye」を設立。現役でマイク前に立つ声優ながら、事務所代表としての顔も持っています。ところが速水さんにこれまでの歩みについて尋ねてみると、「じつは声優には興味がなかった」という意外な返事が……! このインタビューでは全3回にわたって、その軌跡と出演作品に対する思いをひもときながら声優・速水奨の原点と思いに迫ります。
勝気な三兄弟の末っ子
――先ほどの撮影でも細身のパンツをシュッと着こなしていて、シルエットが素敵すぎました。体型維持のために何かされているんですか?
速水:週2回、ジムに行くようにしています。今日もこのあと行きますよ。
――続けられて長いんですか?
速水:もう4年くらいになるかな。その前も、初期の頃のライザップをやったりほかのジムにも登録したりしていたんですが、幽霊会員で会費だけを払い続けてしまって。たまたま4年ほど前に飲み屋で知り合ったパーソナルトレーナーの方のところに通い始めて、それからはずっと続けられているという感じです。
――そうなんですね。すみません、余談から入りましたが改めてよろしくお願いします。
速水:よろしくお願いします。なんでも聞いてください。
――ありがとうございます! 早速ですが、幼少期はどんな性格のお子さんでしたか?
速水:僕は、男三兄弟の末っ子だったんですが、2歳ずつ離れた兄たちがわりと優秀で、環境的にはすごく恵まれていたんですね。幼稚園から高校まで兄弟3人全員同じ学校で、なんなら父親も同じ高校の卒業生。
地元では「神童」とうたわれた長男のもと、いじめられることもなくのびのびと育ったと思います。
――お兄さんたちの威光が強かったんですね。速水さんご自身は、ガキ大将みたいにはならなかったんですか?
速水:そういう面もあったかもしれません。僕らが小学生の頃って、地域ごとに一斉登校をするのが決まりだったんですよ。そうすると、僕らの地域のグループと別の地域からのグループが通学路で途中一緒になる。
これはもう、昭和の古い話として聞き流してもらいたいようなことですけど、その通学路で上級生がね、別の地域同士の下級生同士に「試合しろ」といって取っ組み合いをさせるんですよね。そうすると剣道や柔道の試合のように、先鋒・中堅・大将と順々に出ていくんです。僕はいつも先鋒で出て行って、隣町の子を泣かしてましたね。
――結構、勝ち気なタイプだったんですね。
速水:内に引っ込むよりも、外で注目を集めることが多かったかもしれません。学芸会で主役を張ったり、学級委員長もずっとやったりするようなタイプでした。
初観劇の衝撃から演劇にのめり込む
――高校に入学すると、演劇部に入られますよね。これはどんないきさつだったんでしょうか?
速水:当時、たまたま僕の地元に劇団青年座がやってきて西田敏行さん主演の舞台『写楽考』を観たんです。もうこれに衝撃を受けて。
元々、父は公務員。小~中学校でも成績は良かったので「自分もいずれは大学を出て公務員になるんだろう」と漠然と思っていたんです。高校も、地元で有名な進学校に入学して。ところがその最初の定期テストで、順位が3桁台になってしまった。中学校では1~2位を争っていたはずなのに。
「これはもう勉強じゃかなわないな」と思っていた矢先に、舞台を観て衝撃を受けて……という感じです。
――どんなところに衝撃を受けたんでしょうか?
速水:物語ももちろんそうなんですけど、僕がいちばん驚いたのは舞台上で青い照明に照らし出された、生身の人間の身体でした。
「こんなになまめかしくて、おどろおどろしいものが現れるのか」って。それから「日常で味わえないような感覚を人に与える、表現するってどんなことなんだろう」と興味が芽生えて、演劇部に入り戯曲を読むようになりました。
当時の僕にとっては、学業からの逃避みたいなものでもあったと思いますが(笑)。
――いやいや、逃避といってもすごく文化的ですよね。本格的に舞台俳優を目指すようになったのはいつ頃ですか?
速水:高校2年生の終わり頃には、もう決めていたんじゃないかな。
演劇部で芝居をやりつつ演劇雑誌を読んだり先輩の話を聞いたりしているうちに「自分もプロとして舞台に立ちたい」と考えるようになって。そうはいっても「大学には行くだろうな」とうっすら考えていたんですけど、勉強しなさ加減やら、演劇への熱意やら、上京に対する憧れやら、いろいろ考えていくと「これは大学に行ってる場合じゃないな」と。
進路を決める三者面談のときに、母親に「僕は大学に行かない。東京に行って芝居をする」と伝えた。そしたら「自分の力で行きなさい」と言われたので、そこからアルバイトをして上京資金を貯めました。
――お父さんにも話されたんですか?
速水:それよりはだいぶ後になって話をしましたね。父からは「この劇団ならどうだ」と知り合いの劇団の事務長を紹介されました。ただ、そこは共同生活を送らなきゃいけないし、どこか考え的に合わない部分があって僕はお断りをしたんです。
そしたら今度は「大学には夜間もあるから、芝居の勉強と同時にやったらどうだ」と。父はいろいろな事情で大学に行けなかった人なので、公務員になってからも大卒の方と比べて出世に差がつくことを身をもって知っていた。なんだかんだ、息子には大学に行ってほしかったんだと思います。
ただ、僕は「大学で遊んでる暇なんてない」という思いだったので、結局、言うことを聞かずじまいで。
――でも、聞いていると速水さんが目指していた世界に対する理解をお持ちですね。
速水:一応、親として「反対している」という図式はあったと思うんですが、いま考えてみると父もいろいろな妥協案を出してくれていたんだなと思います。
お芝居の基礎を培った青年座〜劇団四季時代
――高校卒業後は上京して、かつてご自身が衝撃を受けた劇団青年座に入られました。
速水:そうですね。ただ上京して、まずは自分一人で生活をしなければなりませんから、夜間のレッスンを一コマ、週3回しか受けられなかったんですよ。一方で“本科”の生徒は週5日間、毎日学んでいる。それと比べると「ここで学んでいても厳しそうだな」とだんだん思えてきまして。
そんな折に、劇団四季に所属している方と出会い、その方の紹介で勉強会に参加させてもらったんです。戯曲の読み方や演技を学んでいるうちに、その方とも親しくなって。あるとき「劇団四季を受けてみないか」と言っていただいて、翌年受かって劇団四季に入ることになりました。
――相当、狭き門ですよね?
速水:それはもう、2,000人が受験して受かるのが30人ですから。しかも3ヶ月ごとに査定があって発声、歌、セリフとか各項目で一定の点数に達していないとどんどん落ちていくんです。最初は30人のクラスでしたが、3年が終わった時点ではたしか、12~13人くらいだったかな。
ただ、その時に培った演技のための基礎的な肉体の整え方や発声方法は、いまもすごく大きな財産になっているなというのは、自分でも感じています。
――すごいですね……! そんな中でモチベーションを維持するのも大変じゃないですか?
速水:大変ですよ。とくに、ちょうど僕が入った頃の劇団四季って、シェイクスピアをはじめふつうの舞台とミュージカルを両方ともやっていたんです。
僕は声楽やダンスを習っていたわけではないので、ミュージカルではなくふつうの舞台に出たいという気持ちで劇団四季に入った。なのに入団したその翌年から一気にミュージカルのほうに舵を振り切ったんですね。ブロードウェイの『コーラスライン』という作品を輸入して、もう朝から晩までダンスの振り付けのレッスンばかり。
ふつうの舞台に出るつもりが、ミュージカルの練習ばかりしてるわけですから。
――入ってから劇団四季自体の方向性が変わったんですね。
速水:歌えて踊れればベストなんだろうけど、僕は踊りも歌もできない、ただセリフを言うのが好きなだけ。「全然、やりたいことと違うな」と思いながらも、3ヶ月に一度の査定はやってくるわけです。
入って丸3年ほど経った冬ですかね。査定に残るため、いつものように体を動かして口を大きく開けて発声していたら、唇の両端、口角のところが乾燥で切れてしまって。そのときふと「俺、血を流しながら何やってんだろう」って。
それで、劇団四季を退所することにしました。