2024/6/22(土)放送
パラスポチアーズ!
〜パラアスリート全力応援〜
圧巻のスピードで水上を駆け抜けるパラカヌーのヒロイン、瀬立(せりゅう)モニカ選手と、スイム・バイク・ランの3種目を連続しておこなう複合競技パラトライアスロンの秦由加子選手が登場!
「この鍛えた腕がチャームポイントなんです!」屈託のないはじける笑顔で話す瀬立選手。リオ大会8位、東京大会7位と痛感した世界の壁…その壁を超えようとウエイトトレーニングで肉体改造に取組み、2023年のアジア大会では見事銀メダルを獲得。勢いそのままにパリでもメダルを狙います。
最も過酷な競技ともいわれているパラトライアスロン。過去2度のパラリンピックでいずれも6位入賞という成績を残している秦由加子選手ですが、観客席から表彰台を見る悔しさを痛感。5月に行われた国際大会で好成績をおさめ、パリ出場に大きく近づき、夢の表彰台を目指し奮闘しています。
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応援団長の中山秀征がパラスポーツを体験しながら、ルールやテクニックなどを解説し、その魅力に迫るとともに、パラアスリートの熱い思いを聞く。
第12回は、パラカヌー女子の瀬立モニカ選手と、パラトライアスロン女子の秦由加子選手を紹介。
河川が多い東京都江東区に生まれ、中学時代にカヌーと出会う
瀬立選手のクラスはKL1。カヤックで最も障がいが重いクラスだ。最大の武器は鍛え上げた腕の筋肉。取材に訪れた応援団長・中山秀征が腕の太さに驚き、「剛腕ですね」と声をかけると、「おかげさまで」と笑う。この腕から繰り出される力強いストロークで、艇をゴールまで直進させる。瀬立選手は、1997年に東京都江東区に生まれた。カヌーと出会ったのは中学時代。「当時の区長さんが江東区に河川がたくさんあるので、それを生かしたスポーツ団体を作ろうと、カヌー部とセーリング部を立ち上げたのがきっかけです」。瀬立選手は江東区カヌー部に所属し、東京国体を目指したが高校1年のとき、体育の授業中の事故で脊髄を損傷。胸から下にまひが残り、車いす生活を余儀なくされた。しかし瀬立選手は絶望的な気持ちにはならず、前向きな姿勢ですぐにリハビリに取り込んだ。
地元開催のパランピックへの出場を果たすが、悔しさを味わう
事故から1年後、パラカヌー挑戦の転機が訪れる。江東区がパラリンピックのパラカヌー会場になる可能性が出て、区からパラリンピック選手を発掘するプロジェクトが立ち上がったのだ。プロジェクトに誘われた瀬立選手は「カヌーの難しさが分かるからこそ、自分はできないと思いました。でもしつこく誘われるので、とりあえず乗ってみたら、意外とできちゃって」。東京でパラリンピックの舞台に立つため水上に戻った瀬立選手は経験もあり、第1回日本選手権で優勝。東京2020パラリンピックを待たずしてリオデジャネイロ2016パラリンピックで夢の舞台を経験した。ただ結果は8位。江東区で開催された東京大会でも7位と、満足できる成績ではなかった。「自分自身に期待していたし、メダルを獲れると思っていたので、悔しかった。カヌー優先でいろいろな選択をしてきたのに、まだ7位か、と。半分やりきった気持ちと、まだ自分はいけるとい気持ち、両方がありました」と振り返る。
東京大会後、瀬立選手は推進力を高めるためパドルをひと回り大きいものに変え、増えた抵抗に負けないようウェイトトレーニングにも取り組み、2023年アジアパラ競技大会で準優勝した。そして「自分自身が納得できるレースをみなさんに届けたい」と臨んだパリ2024パラリンピックでは東京大会から順位をひとつ上げて6位。メダルには届かなかったが、レース後は「うれしさ7割、悔しさ3割」と語った。うれしさが悔しさを上回ったということは、ある程度、納得できるレースだったのだろう。表情は晴れやかだった。
表彰台からの景色を見るため、多くの人と関わりながら挑み続ける
パラトライアスロンは、スイム(水泳)0.75km、バイク(自転車)20?、ラン(長距離走)5kmの計25.75kmを連続して行い、合計タイムを競う。車いす、肢体不自由/立位、視覚障がいの3カテゴリーに大別され、秦選手は立位で最も障がいが重いPTS2の選手だ。1981年に生まれ、3歳で水泳を始めた秦選手は、13歳のとき骨肉腫を発症し、右脚を大腿部より切断。社会人になってから水泳を再開し、2010年アジアパラ競技大会などで日本代表を経験した。その後、2013年にトライアスロンに転向して急成長を遂げ、リオ大会に初出場、日本選手最高の6位の成績を残し、次の東京大会でも連続で6位に入賞した。秦選手はトライアスロンについて、「人とのつながりが深まる競技。たくさんの人と関わって競技を追求できることは人生を豊かにしてくれる」と語る。秦選手は2024年5月に行われたワールドトライアスロンパラシリーズ横浜大会で3位に入り、パラリンピック3大会連続出場を手繰り寄せた。レース後、表彰台に立った泰選手は「観客席から(表彰台)を見る景色って悔しいんですよ。(パリでも)表彰台に上がりたい」と語った。しかし結果は9位。調整が順調にいかなかったようだ。またも悔しさを味わったが、競技人生が終わったわけではない。全ての経験を糧に、泳ぎ、ペダルを踏み、走り続ける。
文/佐藤新