2025/8/2(土)放送
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東京2020パラリンピックで史上初となる銀メダルを獲得!チームの司令塔、ポイントガードを務める車いすバスケットボール日本代表、古澤拓也選手を紹介。
野球少年だった古澤選手。先天性の病気が進行し小学6年生の時に車いす生活に…プロ野球選手の夢を断念し、失意の中で出会ったのが車いすバスケットボール。個人練習で、ひたすらドリブルを鍛えていたら世代別代表候補に選出!
古澤選手を奮い立たせた、日本代表ヘッドコーチの京谷和幸さんからの言葉とは!?
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2025年8月2日初回放送回は、車いすバスケットボール男子日本代表チームで司令塔としてプレーする古澤拓也選手を紹介する。
ドリブルやパスで攻撃を組み立て、シュートも狙う司令塔
車いすバスケットボール男子日本代表は、東京2020パラリンピックで史上初のメダルとなる銀メダルを獲得した。しかし、パリ2024パラリンピックの予選を兼ねた2024アジアオセアニアチャンピオンシップスで4位に終わり、パリの舞台に立つことができなかった。その悔しさをバネに、ロサンゼルス2028パラリンピック出場を目指すチームのポイントガード、主にパスで攻撃を組み立てる役割のポジションを担うのが古澤選手だ。車いすバスケの選手は、障がいの程度によって持ち点が割り当てられ、コート上の5人の持ち点の合計が一定以内になるようチームを編成する。古澤選手は比較的障がいが軽く、攻撃面でチームを支える選手。相手の守備をすり抜ける巧みなドリブルが武器で、3ポイントシュートの名手でもある。
そんな古澤選手にチアーズファミリーでラグビー元日本代表の廣瀬俊朗がインタビュー。1996年生まれの古澤選手は、全国高等学校野球選手権大会が好きで、いつかその舞台に立ちたいと願う野球少年だった。だが12歳のとき、生まれたときから患っていた脊椎(せきつい)の病気が進行して手術を余儀なくされ、術後は車いす生活に。古澤選手によると「しなかったら麻痺が残ってしまうので、将来の運動ができる体を保つためにした」手術だったが、野球選手としての夢は断念せざるを得なかった。そんなときに出合ったのが車いすバスケ。体験教室でプレーしてすぐに夢中になり、「大人のチームしかないので、13歳で社会人のチームに入った」という。いざ入ると、社会人選手は仕事があるため練習は夜に行われ、古澤選手は学校が終わってから、チーム練習までの間、ひたすらドリブルの自主練習をしていたという。
恩師の言葉で奮起し、自分の武器を磨いて再びメダル獲得へ
練習の成果もあり、高校2年生でU23(23歳以下)日本代表に選出され、成長を続けていった。しかしその後、トップカテゴリーの日本代表の選考合宿に呼ばれるも2歳下の選手が飛び級でトップの代表入り。古澤選手は落選し、挫折を味わった。そこに当時のU23ヘッドコーチ(HC)だった京谷和幸(現・日本代表HC)から檄が飛んだ。「お前はそこに立っていなくていいのか?」。京谷HCは「(選考に落ちた古澤選手が)他人事のように代表のゲームを見ている姿から、悔しさの感情が伝わらなかったので、その言葉をかけた」と当時を振り返る。
京谷HCの言葉に奮起した古澤選手は、それまで以上に競技に打ち込み、練習の量を増やし、質も向上させた。その結果、「筋肉量が増えて3ポイントシュートが(リングに)届くようになり、車いすを漕ぐスピードも速くなった」そう。止まる力も強くなった。速くなると、止まるためのブレーキ動作の重要性も増す。ブレーキ動作と敏捷性は古澤選手の強みで、急停止と急加速を繰り返して局面を打開していく。
自分の武器を磨いた古澤選手は、2016年にU23の主将になり、初のパラリンピックとなった東京大会で銀メダル獲得に貢献。しかしパリ大会には出場できなかった。廣瀬が「何がうまくいかなかったのか」と切り込むと、古澤選手は「ベテランの方が数人抜けたこと、日本が武器にしていた攻守の切り替えの速いバスケが世界の主流になってきたこと、日本が分析され対策されたこと」と要因を挙げた。その上で、今後の目標を「個人的に伸ばしたいのはゲームメイクの力。チーム全体では、切り替えの速い攻守をさらに磨き、相手の対策を超えるスピードのバスケで勝負したい」と語る。日本は11月に行われた2025アジアオセアニアチャンピオンシップスで準優勝し、2026年世界選手権の出場権を勝ち取った。世界選手権の成績はロス大会出場権にも影響するため、結果が求められる。その先に見据えるのは「(パラリンピックで)もう一度メダルをとること。やるからには全部勝ちたい」。古澤選手の言葉は力強い。
文/佐藤新