2026年3月13日(金)更新
パラアイホ、惨敗からのリスタート
50歳・熊谷昌治は氷上の“中年の星”
パラアイスホッケーの1次リーグB組最終戦で、日本はスロバキアに敗れ、3連敗を喫しました。A組3位のイタリアとの5~8位決定予備戦に敗れ、現地時間13日(日本時間14日)に行なわれるB組3位のスロバキアとの7~8位決定戦で、今大会初勝利に望みをかけます。
課題が残る結果
開幕前、20歳のエース伊藤樹選手は、「一番大事なのは(初戦の)チェコ戦」と語っていました。
敗れはしたものの、世界ランキング3位の強豪相手に2対3と善戦。内容が良かっただけに、伊藤選手は「メダルが見えていることを実感できた」と強気でした。
だが、世界の壁は、想定していた以上に厚かったということでしょう。
ここまで4試合のスコアは次の通り(日付はいずれも現地時間)です。
3月7日 2対3チェコ
3月9日 0対14カナダ
3月10日 1対5スロバキア
3月12日 0対5イタリア
50歳のキャプテン・熊谷昌治選手は大会前、「若い選手たちが育ってきて、(今大会は)本当に楽しみ」と語っていましたが、多くの課題が残る結果となってしまいました。
熊谷選手は33歳の時に、バイクで仕事からの帰宅途中に事故に遭い、右足の切断を余儀なくされました。
「もう結婚もしていて、小学1年生と5歳の子どもがいました。自動車整備士をしていたのですが、仕事のことを考えると、足を切断するかしないかで、そりゃ悩みましたよ。感覚のない足を引きずってこのまま生きるか、思い切って切断するか……」
究極の二者択一を迫られたわけです。
もともとスポーツが得意ではありましたが、大きな大会に出場したとか、記録を残したといった経歴の持ち主ではありません。
「衰えは感じない」
――少年時代の思い出は?
「出身が長野県飯田市でしたから、冬になると田舎の田んぼが凍る。そこでスケートをしたりしていました。田舎育ちなものですから、野山を駆け回ることで、バランス感覚が養われたのかもしれません」
パラアイスホッケーを始めるきっかけは、1998年長野大会から今回のミラノ・コルティナ大会まで6大会でパラリンピックに出場している同じ長野県飯田市出身の吉川守選手に「やらないか」と声をかけられたことでした。
「退院後、最初は車いすバスケットをやっていたんです。その時に声をかけてもらった。2010年バンクーバー大会の銀メダルを見せてもらえたことも刺激になりました。僕も近付けるかもしれないと……」
念願かなって、初めて出場したパラリンピックが18年平昌大会。しかし、日本は5戦全敗の最下位に終わります。22年北京大会は最終予選で敗れ、出場することもできませんでした。
それだけにミラノ・コルティナ大会にかける思いは人一倍強かったはずです。だが、結果は甘くありませんでした。
もっとも、日本代表は目下、世代交代の真っ最中です。20歳トリオの伊藤選手、鵜飼祥生選手、森崎天夢選手、チーム最年少16歳の河原優星選手らがミラノで得た教訓は、必ずや次のフランス・アルペン大会で生きてくるはずです。
大会前、本人に「50歳になって衰えを感じることは?」と聞くと、「それが、まだないんですよね」とサラリと答え、こう続けました。
「(若手に対し)まだスピードで負けるつもりはないし、当たりに対してもそう。ただし新聞の紹介記事で(50)と年齢を書かれるのがちょっと(笑)」
熊谷選手には、ミラノの悔しさをバネに、まだまだ“中年の星”として氷上で輝き続けてもらいたいものです。

二宮清純
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