二宮清純コラムオリンピック・パラリンピック 奇跡の物語
~ビヨンド・ザ・リミット~
2021年8月19日(木)更新
成田真由美「私はもっと強くなれる」
“水の女王”50歳のラストチャレンジ
パラリンピックの競泳女子で計15個の金メダルを獲得し、“水の女王”と呼ばれているパラリンピアンがいます。成田真由美さん、50歳。8月24日に開幕する東京大会を最後に、順位やタイムを争う第一線の大会からは身を引くつもりです。
パラ競泳との出会い
成田さんの人生は波乱万丈です。苦難と闘い続けた歴史でした。
本人によると、子どもの頃は男勝りのスポーツ少女だったそうです。運動会のリレーは、いつも花形。小学校を卒業する時には身長が168センチもありました。勉強も得意で、何事も1番にならないと気がすまない性格だったといいます。
そんな成田さんに試練が襲いかかったのが中学1年の時。突然、下半身が動かなくなってしまったのです。
以前、成田さんはこう語りました。
「熱が続き、足がしびれてきて、その後は完全にマヒ状態に陥ってしまった。最初はヒザが痛く、病院で手術した。それでも全然、痛みは消えず、病院を転々としながら手術を繰り返していくうちに、結果的に脊髄にきてしまったんです」
病名は脊髄炎。効果的な治療法が見つからず、対処療法で点滴をうち続ける日々が続きました。
「不安よりも学校に行けない悔しさの方が強かった。なんで皆は学校に行っているのに、私は行けないんだろう。そう思うと悔しくて悔しくて……。ベッドの上から教科書を1枚1枚破って、床にポーンと投げ捨てる日々……」
待っていたのは車イス生活。走ることはもちろん、歩くこともできない。しかし、苦手だけど泳ぐことならできる――。
そんなある日、障がい者の競泳大会に誘われました。リレーのメンバーが足りないから出て欲しい、という依頼でした。それがパラ競泳との出会いでした。
初めてのパラリンピックは1996年アトランタ大会。2つの金メダル(女子50メートル自由形・S4と女子100メートル自由形・S4)と2つの銀メダル(女子200メートル自由形・S4、女子50メートル背泳ぎ・S4)、そして1つの銅メダル(女子 150メートル個人メドレー・SM4)を胸に飾りました。この大会で、成田さんは生涯のライバルに巡り会います。
ネバー・ギブ・アップ
ドイツのカイ・エスペンハイン選手。アトランタ大会の前に彼女の存在を知った成田さんは猛烈なライバル心を燃やします。なぜなら100メートル自由形で、カイ選手の持ちタイムは自らより11秒近く速かったからです。
2人の対決は50メートル、100メートル自由形では成田選手、150メートル個人メドレー、200メートル自由形、50メートル背泳ぎではカイ選手に軍配が上がりました。
4年後の2000年シドニー大会でも、2人は覇を競います。カイ選手が体調を崩していたこともあり、成田選手は6つの金メダル(女子 50メートル自由形・S4、女子 100メートル自由形・S4、女子 200メートル自由形・S4、女子 50メートル背泳ぎ・S4、女子 150メートル個人メドレー・SM4、女子 4×50メートルフリーリレー20pts)を手にしました。
その2年後、成田選手のもとに訃報が届きます。闘病生活を続けていたカイ選手が34歳で力尽きてしまったのです。
「私にとって本当のライバルはカイだけ。お墓を訪ね、メダルを置いてきました」
そう語る成田選手自身も満身創痍です。08年北京大会後には右ヒジにメスを入れました。股関節の手術は7回を数えました。
成田さんには昨年10月に会いました。パラリンピックの1年延期について聞くと、こう語りました。
「あと1年あれば、もっと強くなれるかな。もう、やるしかないんだし……」
そう言って、ひと回り太くなった腕を差し出しました。胸筋も厚みを増した、と語っていました。
「車イスの下に網があるでしょう。あそこに2キロの鉄アレイを2つ置き、隣の駅まで車イスを漕いでいます。片道1.3キロ。往復で2.6キロ。帰りには緩やかな上りのスロープがある。そこが最後の踏ん張りどころですね」
ネバー・ギブ・アップ。パラリンピックきっての“水の女王”のラストチャレンジを、しっかりと目に焼きつけたいものです。
二宮清純