二宮清純コラムオリンピック・パラリンピック 奇跡の物語
~ビヨンド・ザ・リミット~

2021年8月20日(金)更新

ホップ、ステップ、ジャンプで金
半谷静香が誓う「柔道へ恩返し」

 東京オリンピックで柔道は史上最多の金メダル9個を獲得しました。メダル総数12個は最多タイ。パラリンピックの視覚障がい者柔道でもメダル量産が期待されます。

「自信が芽生えた」

 5年前のリオデジャネイロパラリンピックで、日本は廣瀬誠選手(男子60キロ級・銀)、藤本聰選手(男子66キロ級・銅)、正木健人選手(男子100キロ超級・銅)、廣瀬順子選手(女子57キロ級・銅)の4人がメダルを獲得しました。

 あと一歩のところでメダルを逃したのが、今回紹介する半谷静香選手(女子48キロ級)です。

 銅メダルがかかった3位決定戦で、半谷選手は2012年ロンドン大会の銅メダリストであるユリア・ハリンシカ選手と戦いましたが、判定で敗れてしまいました。

 それからしばらくして、本人に話を聞きました。

「めちゃめちゃ悔しかったです。でも、もともとリオ大会への出場権はなく、ロシアのドーピング問題で大会2週間前に繰り上げ出場が決まったのです。それで、とりあえず急いでリオに向かった。逆にそれにより開き直って戦うことができました。

 ハリシンカ選手に対しては、畳に上がる前は“当たって砕けろ”と思っていたのですが、畳に上がった瞬間に恐怖心を感じてしまいました。腰が引けたところを狙われ、小内刈りで有効をとられてしまったんです。

 それでも後半は自分のペースで試合ができていました。負けはしましたが、リオまでは世界のトップ選手とは雲泥の差があると思っていたので、その意味では自信が芽生えた大会でもありました」

 網膜色素変性症という先天性の病気により視力を失った半谷選手が柔道に出会ったのは中学3年生の時でした。進行性の病気のため、大学(筑波技術大)に入って視力はいよいよ悪くなり、大きな文字さえ読めなくなってしまいました。

 2011年3月11日、この国は未曽有の大災害に襲われます。東北地方を中心に死者・行方不明者約1万8000人を出した東日本大震災です。半谷選手は大学4年生でした。

「日本にいい流れを」

「まだ就職先も確定していない状況。しかも私の実家は福島県いわき市。家族も被害を受けたため、実家に戻ることもできませんでした。1年後にはロンドンパラリンピックの選考会が控えていたのに、練習する環境もない……」

 そんな彼女に救いの手を差し伸べたのが、92年バルセロナオリンピック・柔道男子95キロ超級銀メダリストの小川直也さんでした。

「驚いたことに、私の所に来るまでは使える技は背負い投げしかなかった。逆によく背負い投げ1本で、ここまでやってこれたなと。だからこそ、まだ“伸びしろがあるな”とも感じました」

 技のレパートリーの少ない半谷選手に、小川さんが授けたのが払い腰でした。

「これにより、彼女は相手の技をしっかりと返せるようになった。これが大きかったんです」

 この年の5月、半谷選手は選考会で結果を出し、ロンドン大会(52キロ級)への出場を決めました。

 ロンドン行きを決めた試合を小川さんが振り返ります。

「背負い投げで2つ有効を取った後、相手の大外刈りを払い腰で切り抜けて、技ありをとりましたからね。背負い投げ以外でポイントをとって勝ったのは初めてだと思います」

 初めてのパラリンピックで、半谷選手は入賞を果たしました。

 ロンドンで7位、リオデジャネイロで5位。ホップ、ステップ、ジャンプとばかりに半谷選手は東京大会で頂点を目指します。「(48キロ級は)一番最初の決勝になるので、私が金メダルをとって日本にいい流れをつくりたい」。そして続けます。「メダルを獲ることこそが、これまで私を支えてくれた人々、そして柔道への恩返しになる」。運命の日(8月27日)は、もうすぐです。

二宮清純

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