二宮清純コラムオリンピック・パラリンピック 奇跡の物語
~ビヨンド・ザ・リミット~

2021年8月18日(水)更新

パラの成功なくして東京の成功なし
中村裕ドクターの理念とミッション

「失われたものを数えるな。残っているものを最大限生かせ」。これは世界で初めて障がい者による競技大会を主催し、“障がい者スポーツの父”と呼ばれるドイツ出身のユダヤ系医師・ルードヴィッヒ・グットマン卿の言葉です。そしてこれこそがパラリンピックの理念そのものです。

「保護より働く機会を!」

 1960年、英国のストーク・マンデビル病院に留学し、グットマン卿の教えを受けたのが、“日本パラリンピックの父”と呼ばれる中村裕医師です。

 東京オリンピックの約2週間後の1964年11月、第2回パラリンピックが東京で開催されました。日本選手団団長を務めたのが中村医師だったことは、あまり知られていません。

 1964年当時、日本において障がい者がスポーツを行うことは一般的ではありませんでした。

 パラリンピックに出場し、日本で唯一の金メダリストとなった卓球ダブルスの渡部勝男さんと猪狩靖典さんは語っています。

「外国人選手が仕事を持ち、買い物に行き、お酒を楽しむ様子に衝撃を受けました。彼らは普通じゃないか!」

 無理もありません。当時の障がい者には、仕事はもちろん、結婚することさえはばかれるような風潮がありました。彼らの生活の中心は、もっぱら療養所でした。

 仕事を持たなければ、障がい者が自立することは永遠にできない――。

 そう考えた中村医師は、「No Charity but a Chance!」(保護より働く機会を)の理念の下、障がい者の授産施設「太陽の家」を大分県別府市に設立したのです。

 中村医師の長男で、「太陽の家」の理事長を務めていた中村太郎さん(大分中村病院理事長)は、以前、私にこう語りました。

「保護ではなく、働く意欲が生きる目的になる。これこそが父の考えでした」

 1981年には中村医師の提唱により、世界初の車いすだけの国際マラソン大会、「大分国際車いすマラソン」がスタートしました。これは今も続いています。

 再び太郎さんです。

 「父が『大分国際車いすマラソン大会』を開催した背景には、障がい者スポーツの確立とともに普及という意味もありました。当時、障がい者の社会参加は、ほとんど認められていなかった。それを促進するためには、まず何よりも世間に対し、障がい者の存在を広く知ってもらわなければならない。そこで世間の目を引こうという狙いもあったんです」

「スポーツ権」の確立

 中村医師の狙いは成功しました。今や大分は車いすマラソンの聖地であり、この大会から多くのパラリンピックメダリストが誕生しています。

 2000年代に入り、障がい者アスリートを取り巻く環境は随分、改善されました。2011年には「スポーツ基本法」が施行されました。

<スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことは、全ての人々の権利であり、全ての国民がその自発性の下に、各々の関心、適性等に応じて、安全かつ公正な環境の下で日常的にスポーツに親しみ、スポーツを楽しみ、又はスポーツを支える活動に参画することのできる機会が確保されなければならない>

 1964年の東京パラリンピックから約半世紀を経て、やっと「スポーツ権」が確立されたのです。

 オリンピック同様、1年延期された東京パラリンピックは、東京、埼玉、千葉、静岡の1都3県21会場で、約170の国・地域から約4400人の選手を迎え、8月24日から9月5日まで13日間の日程で行われます。

 心配なのは新型コロナウイルスの感染拡大です。パラアスリートの中には、基礎疾患を抱え、感染すると重症化する選手もいるため、キメの細かい感染防止対策が求められます。また残暑も大きな懸念材料です。

 パラリンピックの成功なくして東京大会の成功なし――。泉下で中村医師は、きっとそう考えているはずです。

二宮清純

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