二宮清純コラムオリンピック・パラリンピック 奇跡の物語
~ビヨンド・ザ・リミット~
2021年8月27日(金)更新
鈴木孝幸、通算7個目のメダル
34歳、「今も進化し続ける泳ぎ」
2004年アテネから5大会連続でパラリンピックに出場している競泳男子の鈴木孝幸選手が25日、50メートル平泳ぎ(運動機能障がいSB3)で銅メダルを獲得しました。翌26日には100メートル自由形(運動機能障がいS4)で金メダルを手にしました。これはパラリンピック通算7個目のメダルでした。
わずか0秒1差
今回は平泳ぎについての話です。鈴木選手は、この種目、08年北京大会で金メダル、12年ロンドン大会で銅メダルを獲っています。
34歳で迎えた今大会決勝、16年リオデジャネイロ大会では2かきに1回だった息継ぎを4かきに1回にして泳ぎました。タイムを縮めるためですが、体力が要ります。
それでもチャレンジしたのは、進化し続ける姿を、多くの人々にアピールしたかったからでしょう。ひとつの場所に立ち止まらないのがレジェンドたる所以です。
このチャレンジが功を奏し、25メートルまではトップでした。後半、ロマン・ジダノフ選手(RPC=ロシアパラリンピック委員会)とミゲル・ルケ選手(スペイン)に抜かれましたが、追ってくるエフレル・モレノ選手(イタリア)を0秒1差かわし、メダルを手繰り寄せました。
鈴木選手は先天性四肢欠損により、生まれつき右足がなく、左足も太ももの半分ほどです。右腕はヒジから先がなく、左手の指は3本しかありません。
鈴木選手に初めてインタビューしたのは13年1月のことです。「保育園の頃、家族に勧められたのが水泳を始めるきっかけ」だったそうです。
「水泳といっても、保育園の頃は犬かきのような泳ぎだったみたいです。スポーツは大好きでした。小学校や中学校ではサッカーも、手に靴をはめて走り、ボールを蹴ったりもしていました。野球も片手でバットを振っていましたよ。友だちは皆、健常者だったので、何でも一緒にやっていましたね」
初めて障がい者の大会に出場したのは16歳の時。
「いい泳ぎをしている」。それを見ていた障がい者水泳連盟の技術委員長の目にとまり、パラリンピックを目指すようになったといいます。
羊飼いのような主将
健常者のアスリートと異なり、パラアスリートには教科書がありません。障がいの種類にしても等級にしても、人それぞれです。手のない選手もいれば、足のない選手もいます。長さも違えば、太さも違います。つまり自分に合ったフォームは自分でしかつくることができないのです。
鈴木選手の場合、最も重視しているのが体のバランスです。
「例えば左手が長い場合、足は右が長いというふうに対角になっていれば、まだバランスをとりやすいんです。そういうライバル選手は羨ましいなと思ってしまいますね。ところが、僕は手も足も左の方が長い。そうすると、どうしても左側に力が寄ってしまいます。そうならないように、短い方の右側をきちんと鍛えるようにして、左右の差が出ないように心がけています」
「失ったものを数えるな。残されたものを最大限生かせ」とは、“パラリンピックの父”と呼ばれるルートヴィッヒ・グットマン卿の言葉ですが、それを高いレベルで実践しているのが鈴木選手なのです。
かつて、鈴木選手はこう語っていました。
「オリンピアンと同じように、僕たちパラリンピアンも絶え間ない努力をし、何度も壁にぶち当たりながらも、その壁を乗り越えようと必死になって自分のパフォーマンスを磨いているということを、もっと知ってほしい。そうすれば、ひいては障がい者を見る目も変わってくるのではないかと思います」
今回、鈴木選手は日本選手団競泳チームの主将を務めます。理想とするキャプテン像について訊ねられると「羊飼いのようなキャプテン」と答えました。俗世に染まらないイメージのある羊飼いとは、何ともロマンチックです。鈴木選手の人柄が表れているような気がしました。
二宮清純