創刊40周年を迎えるスポーツ総合雑誌『Sports Graphic Number』のバックナンバーから、
球団ごとの名試合、名シーンを書き綴った記事を復刻。2020年シーズンはどんな名勝負がみられるのか。
2016年広島 セ・リーグ優勝
From 1996 to 2016 メークドラマ〝悲劇〟をこえて。
text by Tadahira Suzuki
巨人の猛追を受け、次第に動きが硬くなっていく仲間たちに向け、チームリーダー野村は何度も決起集会を開いて訴え続けた。
「重圧の中でやるしかないんだ。今日は今日、明日は明日。切り替えてやっていくしかないんだ!」
野村のあがきも、叫びも届かなかった。8月の終わりには4番江藤が離脱した。ボロボロになった広島は力尽きた。
「いつも東京に、巨人に負けたくないと思ってやっていた。『なんで巨人はあんなに恵まれているんだ』と僕らが言ってしまえば、それで負け。だから、そういうことは絶対に口にしなかった。逆に、巨人の選手に『広島は恵まれていないのに、なぜ、あんなに……』と言わせたかった。だから、あの年は僕の人生で一番悔しい。本当に、記憶から消してしまいたいくらい」
今、眉間にしわを寄せて、そう吐き出す言葉には、つい昨日の出来事を語っているような、生々しい感情がこもっていた。
佐々岡真司はあの年、初めてシーズン通して、ストッパーを務めた。7年目、怖いものなどなかった。巨人に最大11.5ゲーム差をつけた7月、チーム内にはオフの優勝旅行の話題が出始めていた。佐々岡も、秋にはそうなるものと信じて疑わなかったという。
「まだ、抑えの怖きも知らない若造だった。だから、優勝旅行はラスベガスと聞いて『ラスベガスかあ。どんなことしようかな』なんて考えていた」
だが、そこから地獄が待っていた。オールスター明け、チーム内に風邪が蔓延した。佐々岡もその1人だった。後半スタートに登板することはできず、いきなり4連敗を喫した。ひたひたと迫ってくる巨人の影。そこから1試合ごとに、佐々岡が上がるマウンドは重さを増していった。
「先輩投手の勝ちを消してはいけないというのもそうですし、首位にいることで、逃げ切らないといけないという重圧がどんどん強くなっていった」
佐々岡は入団2年目、先発投手として17勝を挙げる大活躍で優勝を経験していた。7.5ゲーム差をつけられていた中日を逆転した。先輩や、首位チームの背中を追いかけるだけでよかった。勢いで最後まで突っ走った。そんな佐々岡が初めて追われる者の立場を知ったのだ。
夏場になると、ベッドに入っても、体の緊張が解けない。明日もまた、あの重苦しいマウンドに上がるかもしれない……。そう考えると、眠れなくなった。それまで恐れ知らずに快速球を投げ込んでいた若き守護神を、恐怖が蝕んでいった。
8月のある日、全身にじんましんが出た。妻に電話して、遠征先の横浜まで薬を届けてもらった。医師に見せても、はっきりしたことはわからなかった。ただ、心身の疲労が原因だろうと指摘された。
心から侵蝕してきた重圧は、次第に体にまで及んだ。ある試合、投球の合間に滑り止め用のロジンバッグを取ろうとして、ハッとした。手が届かない。腰を折ることができないのだ。ショックだったが、佐々岡は、その異変を誰にも気づかれないように注意しながら、そっと膝を折って、何とかロジンを拾った。
その頃、試合前のトレーナー室は主力選手でごった返していた。痛み止めを打つ者、点滴を受ける者、テーピングを施す者……。とても、自分のことなど言い出せなかった。まして、カープのストッパーという地位に、人一倍誇りを持っていた佐々岡にとって、その座を失うかもしれない怖れの方が勝った。
「みんな少々の痛みでも、それを出さずにやっていた。痛いというのが恥ずかしかった。それに抑えは自分しかいないという気持ちも強かったですから」
佐々岡が生まれ育った島根県では、巨人戦の中継しかやっていなかった。周りはみんなジャイアンツファンだった。だが、佐々岡は、なぜかたまにしか目にすることのない赤いユニホームの虜になった。特に津田恒実が好きだった。ストレートで真っ向勝負する〝炎のストッパー〟に憧れた。投げ方や仕草まで真似した。社会人・NTT中国では複数球団に狙われる逸材だったが、自ら広島を熱望し、ドラフト1位で入った。津田と同じユニホームでプレーできることが嬉しかった。
1年目、佐々岡は先発としてプロ初勝利を挙げるなど、順調に滑りだした。ところが4月、津田が故障で離脱すると、監督の山本浩二に呼ばれた。
「お前にストッパーをやってもらう」
心が高鳴った。憧れていた津田の後を自分が継ぐ。暫定措置ではあったが、カープの守護神が持つ重みを胸に刻んだ。そして、津田は翌年、悪性の脳腫瘍が見つかり、闘病の末に32歳の若さでこの世を去った。
佐々岡という投手を象徴する記録がある。先発での100勝と、100セーブ。日本プロ野球史上ただ2人しか成し遂げていない偉業だが、名球会の栄誉は与えられていない。91年に17勝を挙げ、沢村賞などタイトルを総なめにした。先発投手としての能力は誰もが認めていた。だが、チーム事情で抑えと先発を行ったり来たりした。働き場所を固定すれば、200勝も夢ではなかったのではないか。そう、言われたこともあった。プロ野球という個の世界で、チームに振り回された不運に同情も寄せられた。ただ、そんな声に対し、佐々岡はずっと持ち続けている純枠な思いを明かした。
「僕はもともとカープが好きで、入団した人間です。母親にカープが勝つところを見せたいという気持ちが強かった。チームの勝利に勝るものなんて、ないんですよ。津田さんの姿を見て、勝利の瞬間、仲間とハイタッチできる喜びを知った。ストッパーほど、やりがいのあるポジションはありません」