二宮清純コラムオリンピック・パラリンピック 奇跡の物語
~ビヨンド・ザ・リミット~

2024年8月22日(木)更新

小田凱人、パラヒーローへの道
凱旋門でパリ王者のかちどきを

 オリンピックが終わると、次はパラリンピックです。2021年東京大会で、日本はホームの利をいかし、総数では歴代2番目のメダル(51)を獲得しました。JPC(日本パラリンピック委員会)は「過去最多のアテネ大会の52個以上のメダル獲得」をパリ大会での目標に定めています。

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国枝慎吾への憧れ

 パリでスターとなりそうなのが、車いすテニスに出場するITF(国際テニス連盟)男子シングルス世界ランキング2位の小田凱人(ときと)選手です。凱人という名前は「凱旋門」に由来します。本人は「凱旋門の前で金メダルを掲げたい」と抱負を語っていました。

 ちなみに凱旋門の正式名称は「エトワール凱旋門」。1805年にナポレオンがアウステルリッツの戦いに勝利したのを記念してつくり始めたもので、完成したのは30年後の1836年。ナポレオンは1821年5月5日に世を去っているため、自らが凱旋門をくぐることはありませんでした。

 小田選手が左脚に骨肉腫を発症したのは小学3年生の時です。左脚の股関節と大腿骨の一部を切除して人工関節を装着する手術を受けました。

 病に冒されるまではサッカー少年で、プロを目指していました。同じ左利きということもあり、元日本代表の本田圭佑選手に憧れたそうです。

 プロサッカー選手の夢を断たれた小田少年にとっての転機は、2012年の夏でした。ロンドンパラリンピックの車いすテニス男子シングルスで金メダルを獲った国枝慎吾さんのプレーを見て、「もうこれだなと思った」というのです。コートで躍動する国枝さんの姿が、小田少年の目には輝いて見えたようです。

 車いすテニスを始めて間もない小学5年生の頃、小田少年は国枝さんがジュニア育成のために開催した「ドリームカップ」に参加しました。

「ワクワクしながら、国枝選手に会うのを楽しみに参加していました」

 憧れのヒーローの背中を追いかけ、小田少年は22年4月、15歳11カ月20日の若さでプロに転向しました。

 ところで国枝さんと小田選手との間には共通点があります。それは病に冒される前から備えていたアスリートとしてのポテンシャルの高さです。

無限大のミッション

 まず国枝さんですが、少年時代、野球に打ち込む日々を送っており、「将来の夢はプロ野球選手になること。できれば巨人の選手になりたかった」と以前、語っていました。

 母親の勧めもあって小学6年生になって車いすテニスを始めた国枝さんですが、技術は未熟でも体力、向上心、闘争心は抜きん出ていたといいます。

 小田選手も小学1年生からサッカーのクラブチームに入り、早くからゴールを量産、Jリーガーを夢見ていたというのですから、運動センスは非凡なものがあったようです。

 昨年6月、小田選手は全仏オープン男子シングルス決勝でアルフィー・ヒューイット選手(英国)をストレートで下し、グランドスラム(4大会)初優勝を達成しました。17歳33日でのグランドスラム制覇は史上最年少でした。

 これにより、小田選手はヒューイット選手を抜き、世界ランキング1位に踊り出ました。男子シングルスの世界ランキングで日本選手が1位になるのは、国枝さん以来、2人目の快挙でした。

「これまで追いかけてきた国枝さんが引退され、1位の座がイギリスの選手に渡っていた。それをすぐに取り返すというのがモチベーションでした」

 それから1年、小田選手は全仏で連覇を成し遂げました。決勝の相手は世界ランキング3位のグスタボ・フェルナンデス選手(アルゼンチン)。第1セットを7-5で競り勝つと、第2セットを6-3。過去グランドスラム5度優勝の強敵相手にストレート勝ちを収め、自身4度目のグランドスラム優勝を飾りました。

 パリパラリンピックの会場も全仏と同じローラン・ギャロスです。小田選手が得意とするクレーコートだけにいやがうえにも期待が高まります。

「僕のプレーを見て、障がいのない子でも車いすテニスがやりたいと思ってくれれば……」と小田選手。自らに課すミッションは無限大です。

二宮清純

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