二宮清純コラムオリンピック・パラリンピック 奇跡の物語
~ビヨンド・ザ・リミット~
2024年8月30日(金)更新
開会式で難民選手団に拍手と歓声
いずれ団体競技でも出場資格を!
パリ・パラリンピックの開会式は、8月28日(現地時間)、市内中心部のコンコルド広場で行なわれ、167カ国・地域の選手たちとともに難民選手団も行進しました。選手団が姿を現すと、広場はひときわ大きな拍手と歓声に包まれました。
シリア内戦の犠牲者
今回の難民選手団は8人。6カ国に拠点を置く選手がパラ陸上競技、パラパワーリフティング、パラ卓球、パラテコンドー、パラトライアスロン、車いすフェンシングの6競技に出場します。
IPCのアンドリュー・パーソンズ会長は「すべてのパラリンピアンには困難や逆境を乗り越え、再び前進する感動的なエピソードがありますが、戦争や迫害から生き延びて難民となり、それでもパラリンピックに出場するアスリートたちの物語は、特に胸を打つものがあります」と述べました。
今回で2016年リオデジャネイロ大会、21年東京大会に続き3度目のパラリンピック出場となるイブラヒム・アル・フセイン選手は、テレビカメラに向かって両手を広げ、何かを訴えていました。
フセイン選手は、これまでの2大会はパラスイミングに出場していましたが、今回はパラトライアスロンにエントリーしています。
フセイン選手にインタビューしたのは、東京大会から1年後の22年7月のことです。
シリア内戦が始まったのは2011年3月。フセイン選手一家は、イラクとの国境に近いユーフラテス川添いのデリゾールという都市で暮らしていました。
ところが、程なくして戦火はデリゾールにも及び、12年10月、友人が政府軍の兵士から銃撃されるという事件が起きます。
以下はフセイン選手の、その時の生々しい記憶です。
「私はビル陰に逃げ込んでいたのですが、ひとりの友人が“イブラヒム、助けてくれ!”と叫びました。出ていけば、私も撃たれる危険がある。けれども、私の名を呼んでいる以上、逃げるわけにはいかないと思い、助けに行きました。そこに戦車の砲弾が飛んできて爆発したのです。気がついた時には、私の右足は吹き飛び、体のあちらこちらに砲弾の金属片がめり込んでいました」
障がいのある難民支援
住む場所を失ったフセイン選手は、その後シリアを脱出し、義足をつけたままの状態でトルコを経てギリシャに入国しました。トルコのイズミルという町からギリシャのサモス島までは5時間かかりました。6メートルほどのゴムボートには18人が乗っていました。文字通り“決死の脱出”だったのです。
フセイン選手の父親は、アジア王者に2度輝いたことのある競泳の名選手でした。ギリシャで難民に認定されたフセイン選手は、自らも本格的に水泳に取り組むようになりました。フセイン選手によると、「水の中は、とても自由だった」そうです。
「ギリシャに来るまでは紆余曲折もあって辛い思いもしてきたけど、泳ぐことで生かされている喜びを噛み締めることができたんです」
16年のリオ大会では難民選手団の旗手まで務めたフセイン選手。19年には、ギリシャで障害のある難民をスポーツの力で支援する「アスロス財団」を設立しました。
設立の動機を聞くと、フセイン選手は目を輝かせて、こう答えました。
「私はスポーツがあったからこそ、もう一度人生をやり直すことができた。同じ障がいを持つ難民に対し、何かできることがあるのではないか。それが私を動かしているんです」
現在、パラリンピックに出場できる難民選手は個人競技に限られています。
「いずれは団体競技でも出場資格を得られるようにしたい」
それがフセイン選手の願いです。
二宮清純