二宮清純コラムオリンピック・パラリンピック 奇跡の物語
~ビヨンド・ザ・リミット~
2021年12月23日(木)更新
原田雅彦“自作自演”の大逆転金メダル
「屋根ついてないから、しょうがない」
来年2月に開幕する北京冬季五輪・日本選手団の総監督に就任した原田雅彦さんほど、冬のオリンピックで日本人をワクワク、ドキドキ、ハラハラさせた人はいないのではないでしょうか。まさに“ミスター・ドラマ”です。
リレハンメルの失速
1994年リレハンメル五輪ジャンプ団体戦。原田さん、葛西紀明さん、西方仁也さん、岡部孝信さんの4人で構成する“日の丸飛行隊”は、7本を飛び終え、2位ドイツに55.2ポイントの大差をつけていました。距離に換算すると、アンカーの原田さんが104メートルも飛べば、日本は史上初の団体戦金メダルを獲得できる手はずでした。
原田さんは1回目で122メートルを飛んでおり、金メダルには“当確”ランプが灯っていました。原田さんの頬には日の丸がペインティングされ、それがリレハンメルの白銀に映え、誇らしそうに輝いていました。
金メダルへのジャンプ――。ところが、です。原田さんは空中で、みるみる失速してしまいます。テイクオフのタイミングを間違え、着地した地点は、あろうことか97.5メートル。雪上で頭を抱え込む原田さんの姿は、日本中、いや世界中に映し出されました。
後年、この時の心境を原田さんは私にこう語りました。
「94年といえば、ちょうどジャンプ競技で、日本人選手が活躍し始めた時期。僕らにとってドイツの選手たちは雲の上の存在。それが、いきなりドイツと金メダル争いをすることになり、ものすごいプレッシャーを感じていました。あのジャンプの後、僕は完全に“失敗した人”扱いでしたね」
それから4年の98年長野冬季五輪ジャンプ団体戦。2月17日、原田さんの姿は白馬にありました。リレハンメルのリベンジなるか。しかし、原田さんは、またしても失敗してしまうのです。
この日、白馬は朝から吹雪に見舞われました。降り続く雪と突風のため、トライアルジャンプは途中でキャンセルされ、競技は予定より32分遅れの午前10時2分に開始されました。
日の丸飛行隊は幸先のよいスタートを切りました。先頭の岡部さんがK点越えの121.5メートル。2番手の斉藤浩哉さんは130メートルの大ジャンプを披露し、この時点で2位オーストリアに44ポイント、距離にして約24メートルの大差を付けていました。
猛吹雪の白馬
だが、第3グループの後半に入ってから、白馬の天候が急変します。原田さんの出番が回って来る頃には、猛吹雪で視界が遮られる最悪のコンディションになっていました。
しかし、シグナルが青に変われば、15秒以内にスタートしなければなりません。自然の気紛れに身を任せるのがジャンパーの宿命とはいえ、これはあまりにも非情です。
果たして、原田さんのテイクオフはうまくいったのか。空中での飛行姿勢はどうなのか。白いベールと化した吹雪の中、原田さんの姿が亡霊のようにフッと現れたのは予想よりも随分、手前の地点でした。
ブレーキングゾーン後方にある電光掲示板に映し出された飛距離は、わずか79.5メートル。白馬に詰めかけた3万5000人の大観衆の歓声は一瞬にして悲鳴に変わりました。この失速ジャンプで、日本はオーストリアに首位を明け渡してしまうのです。
直後、原田さんは、うめくように、こうつぶやきました。
「屋根ついてないから、しょうがないよね」
急変した天候が原因ゆえ、原田さんを責めるわけにはいきません。しかし、同じ悪天候の中、フィンランドのエース、ヤンネ・アホネンさんは101メートルを飛んでいます。もう少し、何とかならなかったものか……。
「原田には運がない」
「勝負弱いんだよ」
ブレーキングゾーン付近、私の周囲にいた何人かの関係者は表情を硬くしながら、そう吐き捨てました。もう金メダルを諦めたかのような口ぶりでした。
しかし、ここからがドラマの始まりでした。今にして思えば、それは原田さん自作自演のドラマでした。とんでもない結末が待っていたのです……。
(後編につづく)
二宮清純