履正社(大阪)の初優勝で幕を閉じた101回目の夏の甲子園には、大正、昭和、平成、令和と4つの時代で選手権出場を果たした古豪の姿がありました。静岡(静岡)、米子東(鳥取)、広島商(広島)、高松商(香川)の4校です。この中で最も多くの出場回数を誇るのが高松商(春夏47回)です。
香川県民から「たかしょう」の愛称で親しまれる同校の野球部創部は1909年(明治42年)ですから110年の歴史を誇ります。甲子園優勝も春夏2回ずつ達成し、OBからは宮武三郎さん、水原茂さん、牧野茂さんの3人が野球殿堂入りを果たしています。古豪ならではの伝統もあり、それが「志摩供養」です。
それは、どういうものでしょう。第1回選抜高校野球大会(大正13年・1924年)で優勝を果たした同校の主力に、志摩定一さんという三塁手がいました。決勝の早稲田実業(東京)戦では6番サードでフル出場を果たしています。その志摩さんはセンバツ以前から肺を病み、その年の冬に世を去りました。「自分は死んでも魂は残って、三塁を守る」との遺言に従った後輩たちが始めたのが「志摩供養」です。
儀式は非業の最期を遂げた先輩の霊を慰めるためのものです。高松商の選手は初回の守備につく前、ベンチも含め全員が三塁ベースを囲んで円陣を組みます。主将が口に含んだ水を吹きかけ、黙祷します。オールドファンにはお馴染みの儀式でしたが、78年、高野連から中止勧告を受けました。「遅延行為及び、宗教的行為にあたる」。それが中止勧告の理由でした。
果たして純粋な慰霊行為のどの部分が「遅延行為及び、宗教的行為」にあたるのでしょうか。疑問に思った私は連載コラムにこう書きました。
<高校野球の歴史は100年を超える。良き伝統は守り、語り継がねばならない。高野連はこうした"野球遺産"をもっと大切にしてほしい。>(スポーツニッポン2016年2月3日付・唯我独論より)
高野連の対応も以前と比べると近年は随分、柔軟になりました。高松商が20年ぶりに甲子園に戻ってきた16年春、「志摩供養」が復活したのです。それは試合前、三塁手がひとりでベース前にひざまずき、黙祷を捧げるというものでした。
23年ぶりに出場した今夏の甲子園でも、つつがなく儀式が執り行われました。1回戦の鶴岡東(山形)戦、三塁手の石丸圭佑選手がベース前にひざまずき、左手を添えて深々と頭を垂れたのです。以下は石丸選手のコメントです。
「僕も(母校の)伝統を受け継ぐ意思、サードを守り切るんだという思いでやりました。(高校野球の)最後が甲子園で終われたことは幸せです。これまでサードを守ってこられた方は皆、そんな気持ちでいたと思うと身が引き締まりました。伝統を受け継げたことは、僕の人生の誇りです」
試合は残念ながら4対6で敗れたものの、石丸選手ら高商ナインは胸を張って甲子園を後にしました。
伝統の「志摩供養」には、次のような逸話もあります。同校OBで阪急のリーグ3連覇(67~69年)に貢献した山口富士雄さんは、3年の春、決勝の米子東戦で甲子園史上初のサヨナラ本塁打を放ち、センバツ2度目の優勝の立役者となりました。試合前、円陣の中心で「志摩供養」をしたのが主将の山口さんでした。
その山口さんから、以前、私はこんな話を聞きました。
「米子東戦、4回に先制され、なおも走者が三塁にいました。これをうちの左投手が牽制で刺したんです。その瞬間、僕は志摩さんがアウトにしてくれたんやと思いました」
長い歴史を誇る甲子園において、大正、昭和、平成、令和の4つの時代で勝利をあげた高校は、まだひとつもありません。果たして高松商は第1号になれるのでしょうか。草葉の陰から志摩定一さんは後輩たちの奮闘を静かに見守っているはずです。
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