今夏、東北勢として初めて甲子園の頂点に立った仙台育英高(宮城)。スタンドにはOBの佐藤由規投手(埼玉武蔵ヒートベアーズ)の姿がありました。15年前の夏、甲子園最速の155キロをマークして日本中を熱狂させた速球王です。
2007年の選手権は佐賀北高が“がばい旋風”を巻き起こした大会でした。広陵高(広島)との決勝戦では、3番・副島浩史選手が決勝では史上初となる逆転満塁ホームランを放ち、96年の松山商高(愛媛)以来、11年ぶりに公立校が深紅の大旗を手にしました。
この大会、投手として最も高い評価を得ていたのが、由規投手でした。2年夏、3年春も出場している由規投手にとっては3度目の甲子園。躍動感溢れるフォームから投じられる真っすぐは、予選時から150キロを超えていました。
初戦の相手は、春夏合わせて3度の優勝を誇る智辯和歌山高。初回に2点の援護をもらった先発の由規投手は、三振の山を築きます。6回表に4番の坂口真規選手に同点2ランを浴びたものの、終わってみれば毎回の17奪三振。百戦錬磨の高嶋仁監督も、ベンチで苦笑いを浮かべるしかありませんでした。試合は8回裏に2点をあげた仙台育英が、4対2で勝ちました。
6日後の2回戦、相手は1回戦で10安打12得点の猛攻を見せた強打の奈良・智辯学園高。由規投手は、この試合でも2回裏に三者連続三振を奪うなど、立ち上がりから飛ばします。
そして4回裏、甲子園が震えます。先頭の稲森翔大選手への5球目、ワインドアップから投じられたストレートが一丸翔巨選手の構えるミットに収まった直後、スコアボードには「155㎞/h」が表示されました。これは04年に寺原隼人投手(宮崎・日南学園高-福岡ダイエーほか)が記録した154キロを上回る甲子園最速記録でした。
しかし、ボールが速いだけでは強豪校には勝てません。5回裏、先頭打者に四球を出すと、この回、4安打3四死球で5点を失いました。結局、この5点が響き、チームは2対5で敗れました。由規投手にとっては、ほろ苦い夏となりました。
その年の高校生ドラフトで由規投手は東京ヤクルト、東北楽天、横浜(現横浜DeNA)、中日、巨人の5球団から1位指名を受け、抽選の結果、ヤクルトが交渉権を獲得し、入団します。ブレークしたのは3年目の10年でした。12勝をあげ、8月には日本人投手最速(当時)となる161キロを記録しました。しかし、翌11年に発症した右肩痛により、NPBでは通算32勝にとどまりました。
過日、由規投手本人から甲子園の思い出について話を聞く機会がありました。
「高校時代は結構ケガが多かったので、とにかく投げ込みばかりしていました。もちろん走り込みもしていたのですが、それ以上に投げ込んで身体をつくっていました。その際、指先から足先まで全身を使って投げるようなイメージを持ちながらずっと練習していましたね」
――スピードが出るようになったきっかけは?
「ある時、佐々木順一朗監督(当時)に“フォームに迫力がない”と言われたんです。たしかに1学年上の田中将大さん(北海道・駒大苫小牧高-楽天ほか)や斎藤佑樹さん(東京・早稲田実業高-北海道日本ハム)、2学年の上の辻内崇伸さん(大阪桐蔭高-巨人)ら球の速いピッチャーの映像を見ると、みんなフォームに迫力があった。そこでコーチの助言もあり、まずは左手の使い方を変えてみよう、と。フォームがぐじゃぐじゃになってもいいから、色々な角度から腕を振ってみるというところから始めました」
――かなりの荒療治ですね。
「すると、だんだん左手が“舵取り”の役目を果たしてくれるようになったんです。前に出した左手を思い切り引くことで反動が生まれ、右腕をそれまで以上に速く、前で振れるようになったんです。それが球速が増した一番の原因でしょうね」
由規投手は32歳の今も独立リーグ(BCリーグ)で投げ続けています。「今のスピードは?」と聞くと、「まだ150キロは出ます」とのこと。かつて村田兆治さんが59歳で140キロを記録したことがありましたが、由規投手には、ぜひそれを超えてもらいたいものです。
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