横浜高(神奈川)といえば、関東というより日本を代表する高校野球の強豪です。春夏合わせて5回の全国優勝を誇ります。長年、部長を務めた小倉清一郎さんと二人三脚で、横浜高を強豪校に押し上げたのが渡辺元(現名・元智)さんです。
渡辺さんは横浜高を卒業後、地元の神奈川大学に進みましたが、肩を痛めて野球を断念。千葉の親戚が営むブルドーザーの修理工場で働いていました。
そんな渡辺さんの下に「ウチの野球部を手伝ってくれないか」と誘いがきたのは、19歳の冬でした。
「自分の生きる道はもう野球しかない」
渡辺さんは、この誘いを一も二もなく引き受けました。
どうすれば強くなれるか。渡辺さんの考えはシンプルでした。
「相手より1時間でも多く練習させれば、それだけうまくなる」
選手の手に包帯でバットを結わえ、貧血でぶっ倒れるまで素振りをさせたこともあるそうです。今なら“しごき”でしょう。
また当時の横浜高は不良の生徒が多く、グラウンドの外でも悩みは尽きませんでした。
いつだったか、渡辺さんから、こんな話を聞きました。
「やたらカネ回りのいいマネジャーがいて、おかしいと思っていると、そのマネジャー、勝手に僕の印鑑を作って選手たちから部費を徴収していたんです。その他にも部室のグラブを仲間に売りつけたり、相手のチームに殴りかかっていくようなとんでもないのが、たくさんいましたよ」
連想するのがテレビドラマの「スクールウォーズ」です。不良や落ちこぼれのたまり場だった伏見工高(現京都工学院高)ラグビー部を監督の山口良治さんが“熱血指導”により全国優勝に導くという実話をベースにした物語ですが、校内暴力が社会的な問題になっていた時期でもあり、大きな反響を呼びました。今では1980年代を代表するテレビドラマと高い評価を受けています。
渡辺さんがスパルタで鍛え上げた選手たちが、初めて全国優勝を果たしたのは1973年の春ですから、横浜高はスクールウォーズの原型と言っていいかもしれません。
それについて渡辺さんは以前、こう語っていました。
「ワルを切り捨てるのが教育だとは思わない。僕たち教師がそういう生徒たちから何かを教わることだってたくさんあるんですから。優勝を機に呼び名も“ヨタ高”から“ヨコ高”に変わりました」
春の次は夏。横浜高が悲願だった深紅の大旗を手にしたのは80年でした。チームの中心は「エースで主軸」の愛甲猛さん。1年生エース・荒木大輔投手擁する早実(東京)との決勝は横浜高が3回までに5対1とリードを奪いましたが、早実は4回に2点、5回に1点と小刻みに点を返し、横浜高に迫ります。
横浜高にはもうひとり、川戸浩さんというサウスポーがいました。しかし、出番に恵まれないため、大会前、「僕はもう野球部をやめます」と渡辺さんに退部を願い出たそうです。
「甲子園では絶対に投げるチャンスはある。横浜には2人のエースがいて初めて全国制覇できるんだ」
渡辺さんはそう言って、川戸さんを引き止めました。
その川戸さんに出番が回ってきたのは5対4の6回です。
ワンマンエースの愛甲さんに「川戸で行くぞ」と告げると、愛甲さんは自分の使っていたグラブを、そっと差し出したそうです。それまで愛甲さんは“ジャイアン気質”で部員との摩擦も少なくありませんでした。1年生の冬には合宿所を抜け出し、野球から離れた時期もあったそうです。
「その愛甲がグラブを渡したんです。あの時、初めてチームがひとつになれた。チームの絆が結ばれた瞬間として、僕には忘れることのできない光景なんです」
エースのバトンを受け継いだ川戸さんは4イニングを投げ、早実を無失点に封じ、6対4で横浜高が頂点に立ちました。
「川戸は来る日も来る日もグチひとつこぼさずシート打撃に投げてくれた。そんな男が報われるのが甲子園なんです」
そう語った渡辺さんの目は心なしか潤んでいました。甲子園で成長したのは選手だけではない。指揮官も、そのひとりだったのかもしれません。
データが取得できませんでした
以下よりダウンロードください。
ご視聴いただくには、「J:COMパーソナルID」または「J:COM ID」にてJ:COMオンデマンドアプリにログインしていただく必要がございます。
※よりかんたんに登録・ご利用いただける「J:COMパーソナルID」でのログインをおすすめしております。