今年まで、巨人の1軍チーフ打撃コーチを務めていたデーブ大久保さんこと大久保博元さんは、甲子園出場経験こそありませんが、高校通算52本塁打を記録するなど、超高校級の強打者として鳴らしました。今も残る“怪童伝説”に迫ります。
デーブさんの母校である茨城県立水戸商高は過去に春4回、夏10回甲子園に出場しています。
OBの中には球史を彩る人物もいます。有名なところでは立教大学の監督時代、長嶋茂雄さん、杉浦忠さん、本屋敷錦吾さんらを育て上げたことで知られる砂押邦信さん。プロでも監督(サンケイスワローズ)を務めました。
また砂押さんの1年後輩にあたる石井藤吉郎さんは、東京六大学野球史に名を刻む強打者のひとりで、社会人野球の大昭和製紙時代には都市対抗でも活躍しました。その後、母校の早稲田大学野球部監督となり、95年には競技者表彰で、野球殿堂入りを果たしています。
プロで活躍した選手と言えば、黄金時代の西鉄ライオンズを“強打のショート”として牽引した豊田泰光さんが有名です。56年には打率3割2分5厘で首位打者に輝きました。06年には引退後の評論家活動が評価され、特別表彰により、殿堂入り。またデーブさんの後輩には阪神などで活躍した井川慶さんがいます。
このような名門で、デーブさんは3年時にキャプテンを務めました。目標は当然、甲子園です。
当時、茨城県下には全国制覇も狙える強豪校がありました。名将・木内幸男監督率いる取手二高です。
実際、茨城県を制した取手二高は、決勝で2年生の桑田真澄と清原和博擁するPL学園(大阪)を8対4で破り、茨城県に初の深紅の大旗をもたらしました。1984年夏のことです。
さてデーブさんがキャプテンの水戸商はと言えば、3回戦で勝田高に2対3で敗れ、取手二高との直接対決はかないませんでした。
いつだったかデーブさんからこのような話を聞いたことがあります。
「一度、取手二高と練習試合の予定があったんですよ。それで朝、集合して取手に向かうところで連絡が入った。“こっちは雨だから中止にする”って。水戸は雨なんて全然、降っていない。あとで聞いたら木内さんの戦略だったみたいです。練習試合でもうちに負けると嫌なイメージで県大会に臨むからよくない、と。それで中止になったみたいだとエースの石田文樹から聞きましたね」
――策士ですね。
「はい。取手二高は違う高校を3校呼んで変則ダブルヘッダーをやったりしてたんですけど、なんだよ、それーって(笑)」
ところで、当時の高校通算本塁打記録であるデーブさんの52本に価値があるのは、そのほとんどを木製バットで打っていることです。金属バットなら、もっと本数を伸ばしていた可能性があります。
デーブさんが飛距離の落ちる木製バットを使用していたのは、早くからプロを視野に入れていたからです。同じホームランでも、木製バットと金属バットでは価値が異なります。そのあたりは監督も心得たものでした。
ところが、藤王康晴さん(享栄―中日―日本ハム)が持っていた高校通算本塁打記録(49本)に近付くと、「次の試合からは金属バットで打て」という指示にかわったそうです。
「プロに行くのに値打ちを付けろ。ホームランを打て!」
おそらく監督の意図としては、木製バットでホームランを量産した時点で、デーブさんの評価は揺らがない。ここから先、さらにハクを付けさせるには、“藤王超え”を実現させ、全国にその名を知らしめよう――。そんな思いがあったのではないでしょうか。
その年の秋のドラフトで、デーブさんは西武ライオンズから1位指名を受け、入団します。水戸商出身者としては、初のドラフト1位選手の誕生でした。
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