野球をやっている少年たちにとって、最初の憧れの舞台は甲子園です。夢にまで見た甲子園で、記憶から消し去りたいようなとんでもない記録をつくってしまった選手がいます。このワースト記録は今も破られていません。
記録の主は金澤真哉さん。1971年のセンバツに報徳学園高(兵庫)の3年生エースとして出場しました。
大会前のスポーツニッポン紙には、次のような論評が掲載されていました。
<とくに主戦・金澤投手は制球力不足を“走り込む”ことで解消してからは、すっかり自信をつけた。下手から打者のヒザ元をえぐるシュート、外角へのカーブは相当な威力をもっている>
報徳学園は2回戦からの出場で、初戦の相手は1回戦で平安高(京都・現龍谷大付属平安高)を2対1で下して勝ち上がってきた東邦高(愛知)。強豪同士の対決ということもあり、注目を集めました。
1回表に幸先よく1点を先制した報徳学園ですが、その裏に“地獄”が待っていました。
<先発金澤が、先頭田口の初球を左腕に死球、続く岡安には3球目を頭にぶつける連続死球で我を失い、以降四球で押し出しの連続、9番長島の時に初めて2-1とストライクが先行すると、スクイズされるなど、打者13人に対して11四死球を与えた。リリーフした金城も続けて3四死球を与え、この回無安打で11点を奪われて敗れた。>(『甲子園出場辞典』東京堂出版)
先頭打者から死球、死球、四球、四球、四球、中飛、死球、四球、犠打、四球、死球、四球、四球。ここで交代。最終スコアは東邦の12対4。初回の11点で、事実上勝負は決まったようなものでした。
スポニチ紙の論評には<金澤投手は制球力不足を“走り込む”ことで解消してからは、すっかり自信をつけた>とありましたが、制球力不足は全く“完治”していなかったのです。
昨年、金澤さんに「先頭打者からの2者連続の死球が影響したのでしょうか?」と問うと、「動揺したことは間違いないです。どうやってもストライクが入らない。それこそど真ん中に投げようと思っても、キャッチャーミットが針の穴のように見えるんです。頭の中も真っ白になって、どうにもなりませんでした」と語っていました。
投げても投げてもボール球ばかり。金澤さんも気の毒ですが、守っている選手たちも可愛そうです。
「死球と四球の連続で、押し出しランナーがぐるぐる回るものだから、内野手が座り込んでしまった。レフトは、後に巨人で活躍する1年後輩の松本匡史が守っていたんですが、彼もしゃがみ込んでいました」
大きな疑問が残ります。ベンチには控え投手も2人入っていました。清水一夫監督は、なぜもっと早く交代させなかったのでしょう。
再び金澤さんです。
「そこは僕も不思議に思っていたので、大学に入ってから聞いたことがあるんですよ。すると“オレはオマエしかいないと思っていた。心中する気持ちだった”と。他にもピッチャーはいたんですけどね」
地獄の日々は甲子園から帰ってからも続きました。家の近所を歩いていると、子供たちから「アイツだ! アイツだ!」と指をさされ、石をぶつけられました。遠征先では、同じ球児に「出てきたな、デッドボール野郎!」とからかわれました。金澤さんは穴があったら入りたい気分だったそうです。
金澤さんが立派だったのは、地獄の底から自力で這い上がってきたことです。監督に「ああいうことがあっても、皆が今後、オレがどうするのかを見ている。そしてオマエも見られている。オレは夏に向けてもう1回挑戦しようと思うが、オマエはどうだ?」と発破をかけられ、再起を誓います。制球力を身につけるため、徹底して走り込みを重ねました。さらには四球をひとつ出すたびにグラウンドを10周するというノルマを自らに課しました。
その夏、報徳学園のエースとして甲子園に戻ってきた金澤さんは、1回戦で秋田市立高(秋田・現県立秋田中央高)と対戦し、7対0で4安打完封勝利を飾ります。与えた四球は、わずかひとつ。そこには春の屈辱をバネに、大きく成長した金澤さんの姿がありました。
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